ふるさと昔話 - 032/056page

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評定に加った大名から推して、幕府の機関であったことは間違いなさそうである。
 元禄二年は西暦一六八九年、昭和六十年から二九六年前のことである。

 この御裁許書は郡役所創設当時、戸長役場から郡役所に引き継がれた。
 しかし畑田としては、貴重な資料であることを考えた小針安次郎さん(哲雄さんの祖父、助役をつとめた)が役人に掛け合っても厄介がって取り合わない。
 何回も何回もしつこく話したところ「そんなに欲しいなら自分で探せ」といわれたので、毎日弁当持ちで通い、郡内から集めたたくさんの書類から一週間もかかって探し出した。
 「ありました」というと「返してもよい」といわれ持ち帰ったものを今も大切に区長保管となっている。

 けんかに持ち物の制限をするなんて変な話だが今の戦争にも毒ガスや細菌などの使用を禁止するのを考え合せると別に不思議もない。
 南横田村との争いには竹槍以外は使わないことになっていたのを畑田村の五十嵐家の先祖(という話が残っている)が本物の槍を持ち出した。というのは相手が万一に備え、落ち士何人かを抱えているという噂が流れていたからである。

 当日は雨だった。みの笠に竹槍をかついで揚馴れた地点に対峙した。
 決戦は牡丹原の西方十字路付近、いきり立った畑田勢がむこうの庄屋を突き殺してしまった。
 死んだのは庄屋一人だけ、こちらに一人の死者もないのに、相手があわてて引き揚げたのを見ると浪人を雇っていたというのは噂に過ぎなかったと思われる。
 理屈はどうであれ、殺した方には歩が悪い。
 庄屋一人に土民七人に相当するどいうのが当時の掟だったらしい。
 畑田にしては困った事件である。

 庄屋は考えに考えた末、一人で責任を負うことを決意した。庄屋なら一人で「相こ」である。
 取り調べに対し庄屋権兵衛は「農民はわたしの指図に従ったもの」という答弁に終始した。
 御仕置と聞いただけでも震えあがる農民には、庄屋に済まないという心の余裕は持たなかったであろう。
 それに自白が何よりの証拠となった昔の犯罪では、庄屋の申し立てによって割と簡単に片付けられたのかも知れない。

 一応、藩の取り調べを終り、身柄を幕府直轄の評定所に送られることになった。
 庄屋は出発に際し村民を集め「この度の事件はまことに遺憾である。しかし村民七人が生命を断たれるのは忍びないので、わたしが一切の責任を負うことにした。
 近々江戸に引き立てられるが二度と村の土を踏むことは叶うまい。
 そこで皆さんにお願いだが、ご承知のとおり伜は至って不束者で、とても庄屋には無理と思うが、わたしに免じて勤めさせてくれ。これが最後の頼み」と申し出るとみんながうなづいた。

 庄屋は別れのことばどおり、村に帰ることはなかった。
 打ち首の刑に処され、鈴が森の刑場に露と消えたことはしばら


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