ふるさと昔話 - 033/056page

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く後の風の便りであった。

 数年経ってぶり返した争いが南横田村から訴えられたが、畑田村の全面勝訴でケリが付きおだやかな暮らしが続くとみえた。
 ところがある年、村に熱病が発生して次々に伝染した。
 祈祷師のお告げによると
 「霊のたたりである。一枚紙を剥ぐ如く人命が失われるであろう」と出た。
 全くそのとおり死亡する者数知れず、百戸もあったのが三分の一に死に絶えたと伝えられている。
 村人はこの熱病を「権兵衛疫病」と称して恐れおののいた。というのは庄屋の願いを無視し伜を退け者にして別人を庄屋に迎えたからである。

 権兵衛庄屋のたたりと観念せざるを得なかった。
 こうしたさわぎの中で家族揃って無事息災の家があった。
 犠牲になった庄屋のために、大晦日には必ず蔭膳を供えたお陰だろうと評判になった。
 しかし数年後それを怠った途端感冒にかかり大事な相続人を失った。

 これらの事実を証明する文献は見当らないが、傾斜のゆるい山林のあちこちに昔畑だった形跡の残っているのがたくさんある。
 あるいは戸数の多かった当時の名残りであろうか。
 その後維新前の資料によると戸数三八、人口二四四人となっている。

 権兵衛庄屋の屋敷は八斗内にあった。東南の隅、四m×六m程の荒れ地は、庄屋の権限で懲罰を加えた跡であり、たたりがあると伝えられて誰も手を出さなかったが、天沢の佐藤孝一さん(洋一さんの祖父)が篠を伐ったところ眼をつつきそれが原因で失明したと語った。
 その後開田されて今そのおもかげもない。

 さきに発行した「岩瀬村の文化財」に載っている「橋本権兵衛之碑」は、思い出したように大正十年に建てたものであるが、長命寺墓地東端に正徳三年に建立した三十三回忌の供養碑がある。
 正面の刻字は橋本権兵衛権十三十三廻霊位施主村中、正徳三年巳十一月十日、右側−斉藤豊前菩提霊位、うら側−斉藤四郎右門菩提霊位、左側−斉藤六右衛門菩提霊位とある。
 この碑についてはいくつもの疑問がある。
 正徳三年は西暦一七一三年、その三十二年前は天和元年に当り、山境論裁許の元禄二年とは八年の開きがある。
 裁許の八年も前に処刑されたのかどうか、十一月十日は命日であるのか、権兵衛は庄屋としての世襲の名であり、権十というのが本名であるのか、三方に刻まれている斉藤某はどう関係があるかなど興味ある今後の研究課題である。

■村内仏閣覧
名 称
所在地
名 称
所在地
照 光 寺
柱 田
永 禄 寺
今 泉
長 命 寺
梅 田
長 命 寺
畑 田
西 蔵 寺
守 屋
白 山 寺
矢 沢
満 願 寺
守 屋
瑞 巌 寺
大久保


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