ふるさと昔話 - 034/056page
庄屋様の下男
上大久保、庄屋の下男を仮りに「作どん」と呼ぶ。
少しおめでたいところがあったのでこの話が生まれたのである。ある村普請の日、庄屋様が都合があって現場に出れなかった。
「作どん、きょうはわしの代りに出てくれ」と言い付けられると喜んで承知した。
ところがいざ仕事にかかる段になっても作どんは一向にやる気がない。
みんなはうんと使ってやろうと思ったのに当がはずれた。
誰かがどなったところ意外なしっぺ返しである。「なにッ、おれにもモッコかつぎをさせる気か。きょうはただの作どんでないぞ。庄屋様の代理だ、みんなさっさとやれ」と号令をかける始末。
みんなが腹を立て、どうでもやらせようとしたところ、いつも知恵者で知られている御仁が
「作どんのいうのが最もだ。きょうは庄屋様だから仕事をさせるわけにはいかない。われわれでやろう」といったので作どんは有頂天の喜び、みんなは知恵者の魂胆を見抜けず不服だったが作業は終った。ご苦労分に一盃という席を設けられたが例の知恵者が作どんを連れて行き「さあさあ庄屋様はここに」と最上座に座らせた。
みんなはいよいよ呆気にとられていたが次の口上でやっと合点した。知恵者は
「これからお酒をいただくわけだが、庄屋様は一摘も召し上らない方だから盃をさす必要がない。われわれだけでいただきましょう」というと作どんは目をキョロキョロ。酒は三度の飯より好きという作どんには大きなショックだった。
みんなはやっどかたき撃ちができると得意になって、わざわざ作どんの前を素通りさせて盃を遣ったり取ったり。作どんは盃の動く度にあっちを見、こっちを見していたが誰も差す人がない。
とうとう我慢できず、自分の前を通る盃を叩き落したが、ついでくれる者はなかった。
弘法清水と弘法坦
北横田字黒沢、須田功英氏隠居の傍らに清水が湧いており、弘法清水と呼んでいる。
弘法大師(空海)は弘仁年間(八一〇〜八二三)二度目の東北御巡錫の際、柳津円蔵寺に虚空蔵尊を安置しての帰り途この地に杖を留め、錫杖を突きさして抜いたところ、清水が湧き出たことから弘法清水と名づけたと伝えられている。この時は真済僧上並びに幹海僧都の二人の御弟子を連れての御巡歴であった。大師は愛樹という霊木に虚空蔵を彫って安置したのであるが、この時削った木片が只見川に落ちてウグイになったとの伝説が語り継がれている。