ふるさと昔話 - 035/056page

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 ところでこの弘法清水は只見川とつながり川水が濁れば濁水が濁り、時折ウグイが往き来すると伝えられ、大師の不思議な法力を信じている。
 また、この付近に寺院の建立をすすめて立ち去ったのを守り、やがて建立したのが満願寺であったろうと考えられるが、今はその跡地がわずかに遠い昔を物語っているに過ぎない。

 更に東に数百メートル、大久保との境、十字路の西に戦後まで、並木のように古木が残っており「弘法坦の森」と呼んでいた。
 古い記録によると「昔、弘法大師が諸国をお巡りの際、錫を此の地に留めてお休みになり、その記念として若杉を手植す。一帯の松杉頗る雄大にしてうっそうたり」とあるが、道路の改修や開拓事業の進むにつれてことごとく代採され、今そのおもかげさえ残っていない。
 只「弘法坦」という小字名がその名残りを物語っている。

 


  清水石不動由来


 深渡戸、岡部富一さんの祖父富右エ門さんは、耕地が少なかったため、しょう油の行商を副業とした。郡内はおろか石川方面まで足をのばした。重い荷物を天秤にかついで………。

 路傍に石のお不動様が建てられてあった。
 信心深い富右エ門さんはそこを通る度に足を留め、商売繁昌をお祈りするのを怠らなかった。
 そのせいかこの地方はいつも売れ行きが上々だった。
 ある夜お不動様が夢枕に立って、
 「信心深いあなたの守り本尊になって末代までお守りしたい」とお告げになった。
 富右工門さんはお不動様を屋敷内に移そうと考えた。

 ある時商売の帰り道、お不動様を背負って来たが、のどがかわいてたまらない。それがなんとわが家から百メートルそこそこの清水の傍らである。のどをうるおし、ひと休みして立とうとしたところ、重くてどうしても立つことができない。はるばるここまで背負ってこれたものをこんな筈がないと不思議に思い、内心怖れを感じたが考え直すことができた。
 お不動様も水を欲しいのか、またここを永住の地としたいお告けであろうどその場に安置して「清水石不動」と名づけて代々供養を続けて来た。

 時は流れ昭和五十四年、交通不便の点で代表的地区であった深渡戸に白河・郡山間の道路が通じることとなり、拡幅工事のため不動様の移転を余儀なくされ、移す場所はこれまでより少しでも高い所という専門家の指図に従って、屋敷を見おろせる山の中腹に安置した。

 像の高さ八○センチ、刻字は右側判読困難、左側に名前があるが略す。
 お不動様の確かな呼び方は「不動明王」明とは知恵の意、その中の王様のこと。
 なかなか教化しにくい象生を教化するために忿怒の相をしているといわれる。


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