ふるさと昔話 - 037/056page

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  明石田左馬助塔


 大字畑田字橋本九四、小針家一族の墓地内にあり多数の墓碑に囲まれ、塔は高さ八十六センチメートル×七十三×三十七センチメートルの方柱状で、上下の博風形の笠石及び倒蓮形(返花)の履石がある。刻字は正面 明石田左馬助塔、左側 ○○太田次郎兵衛、右側、中央に寂了信男、右に太田氏、左に谷○○右門、うら梵字とか女の法名。
 すなわち現在の須賀川市にあった明石田館主、明石田左馬助の墓標であって、天正十八年覆滅後、当地に土着した子孫が建立したものである。

 明石田氏は、本姓太田、源三位入道頼政の子駿河守広綱より出ず。広綱の三男を兵部という。文治五年(一一八九年)七月十九日、源頼朝が藤原市を討つために「奥州進攻作戦」を号令し、自ら陣頭に立って進攻した。
 この時の頼朝の総兵力は三十万、藤原方の総兵力は十七万、全国統一の覇権をかけての一大決戦であった。頼朝はこの決戦に二十八万の兵力を増員したとあるから、いかに全力を集中したかがわかる。

 この戦いに、源氏の氏族である太田兵部は頼朝公に従って東征し、旧安積郡笹川辺の戦いで負傷した。
 あくまで忠誠を捧げようどする兵部が負傷にめげず従軍を申し出たが、深傷のため療養をさとされ、明石田村(旧仁井田村)の既墾田三十丁部を与えられて戦列を離れた。頼朝軍が鎌倉を出発して丸十日、七月二十九日には白河に着き、八月八日には福島盆地入り口の石那坂の第一線陣地を陥れた経過をみると笹川方面での戦いは、八月三日、四日頃であったろうか。七九六年前のことである。

 時は流れ、兵部より十三代を右馬助という。建武二年(一三三五年)国守源中納言顕家卿に従って西上し、翌年正月楠正成、新田義貞の諸将と共に足利尊氏を討ち大いに之を破る。凱戦の後、また明石田村のうち加増せられ、終始一貫して往事に勤労した。
 右馬助より六代を左馬助という。時に文安三年(一四四六年)二月須賀川城主二階堂遠江守為氏が始めて封に就き郡内に号令した。

 左馬助はこれまでの事情をくわしく申述し、旧領そのままでよいとの承認を受けた。これを機に村名に因んで姓を明石田と改めたのは領地と命運を共にする決意のあらわれであり、この時左馬助の胸には為氏に対する忠誠が強く刻みこまれたに違いない。

 当時の明石田村は、安積郡との境界に当り防衛の上からも重要な地であったにかかわらず、館ケ岡村より開拓がおくれ、大部分が不毛に属していた。為氏はここに着目、館ケ岡館主須田備前守の知行所に編入して開拓を進めさせた。新たに村を置き館を築き、水を流して田にそそぎ新田と称した。新田館は今の館内であり安積の界に近く明石田館より西寄りである。この館には、旧浜田村浜尾の館より浜尾民部大輔を移した。

 開拓が進むにつれて美田が拡がり、ささやかな明石田の呼称は影がうすれ、新田の名が次第に全村に行き亘り新田村と改めるに至る。やがて徳川幕布の初期に仁井田村と改めたのであるが、その語源は新田を「にいた」と発音したことに因るものである。


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