ふるさと昔話 - 038/056page

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 明石田氏は、浜尾氏と共に二階堂氏に属して北の門の守りに任じていたが、左馬助の曽孫左馬助に至り、天正十七年(一五八九年)十月二十六日戦いの火ぶたが切られ、伊達正宗が、二階堂氏を攻むるや西部の館主皆政宗に降り敵を倒して須賀川城を撃つ。左馬助は独り義を執りて動かず、翌十八年二階堂氏の支族矢田野伊豆守の一門が大里城に拠うて義を唱うるに呼応し、泉田将監を共に赴きそれを受けて大いに伊達勢を苦しめた。

 ところが同年八月に至り関白豊臣秀吉が須賀川支援のため東下の報が伝わるや伊達勢はおどろいて自ら囲を解いて帰国するに際し、うっ憤を晴らさん為に明石田城の空虚をついて火を放ち、僅かの留守士を皆殺しにした。左馬助は帰る家(館)なく、依るに人なきに至り、畑田に走りて自害し、文治五年より天正十八年に至る四百余年間続いた明石田氏は滅亡した。長男次郎兵衛、父左馬助と共に来り、帰農して太田姓に復し後、太郎左衛門と改正した。

 以上がいきさつのあらましであるが、その子孫が小針姓になった事情は必ずしも明確でなかった。ところが、須賀川市史編集資料によると、中世に至り西白河郡新城の豪農と小針氏養子縁組に及んで小針を名乗るに至ったとある。
 あるいは百姓になりきるためには武士当時の太田姓を忘れ去ろうとする心情であったのだろうか。今なお用いている桔梗の紋章は太田氏本来のものである。

 


  大久保藩主本多政利


 本多政利は、徳川家康の四天王の一人として名をとどろかせた本多平八郎忠勝から四代目にあたり、母は越前松平直純(家康から六代)の女、寛永十八年(一六四一年)に生る室は水戸中納言頼房の息女、徳川家とは渾然一体の家柄である。明暦元年(一六五五年)十二月二十九日従五位下出雲守に叙任せられ、寛文十一年(一六七一年)十二月二十三日、六万石を賜り大和郡山城主となり、次いで延宝七年(一六七九年)明石六万石七代目の城主となる。ところが政利は性短慮、弾正左衛門という立場にかかわらず、領内の政治向が悪く、素行も治まらず、幕府の巡検視に対しても不都合があるなど異常な行動が多かった。

 幕府内には、出雲守取つぶしの強硬派もあったが、何方にも水戸殿の御聟、天下の御間柄とあって処置に苦慮した模様である。
 しかし、世の上の批判と無視できず。積る悪るが上聞に達したため天和二年二月二十三日領地及び明石城を召し上げられ、勘忍料の形で僅か一万石を与えられ、大久保に所替えを命ぜられて新藩を起した。

 明石城の後任は越前城主松平若狭守直明、引継は五月二十三日に終了したが、大筒五挺、鉄砲三八三挺、玉大小二七四貫外多数の武具、馬具など一応の軍備を整えた城持ち大名であった。それが奥州の辺地に所替え、出仕も免じられたのである。

 大久保藩一万石は長沼領からの分割という形で創設された。長沼領から渡った村には、大久保、北横田、深渡戸(端郷吉兵エ新


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