ふるさと昔話 - 039/056page

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田を含む)、畑田、矢沢、袋田、仁井田、滑川、山寺、越久、大桑原の十一ケ村であった。

 藩主本多政利は大久保一万石になってからも反省は全くなかった。実際には大久保には移住せず江戸の藩邸に住み暴君の名をほしいままにした。町に出ては町娘に手を出した。妻が妊娠するとその異常な気質を丸出しにする事件を起した。「このわしの子が、どんな子か一日も早く見たい。早く見せてれ」そんなことを口走りながら、腹の子を見たくて妻を殺したといわれている。

 廃藩になったため関係資料が散逸し、地元の庄屋文書等も見当らない。現存する年貢割符状としては大桑原村の天和二年の「大原原村亥御年貢可納割符之事」と貞享元年の「大桑原村子御年貢可納割符之事」(渡辺文書)の二通だけである。この割符状を長沼領時代のものに比べると、災害等による除き高がない。米、お金の賦課は長沼領の倍となっている。その上農民が人夫役をお金で代納した。夫=金三貫四六三匁が新たに賦課され、更に「外」として糖代、わら代、綿代、鳥役といったものが記載されている。六万石から一万石に減らされた藩主にとっては、農民からしぼり取る以外になかったのは当然だったのであろう。

 こうして罪なき女を殺害し、あるいは農民を苦しめた悪政が幕府の耳に入り、大久保一万石は没収され、政利は流人として荘内藩鶴ケ岡城主酒井左衛門尉忠真に預けられ、長男内匠政真は伊予小松藩一柳兵部少輔直治にお預けとなった。天禄六年(一六九三年)六月十三日のことであり、大久保藩は十二年間で消之去り領地は長沼領に復帰した。

 流人の身であるから僅かの家臣を連れての道中と思われたが全く想像外、もともと尊い身分であり、預かり人の気の配りがひと方でない。
 騎馬士以下、草履取、雨具持 茶坊主、大工に至るまで総人数二四〇人の行列である。道々には人足十五人、馬四十疋を揃え置くよう布令されている。
 六月二十三日江戸出発、二十七日白川泊、矢吹休、同二十八日郡山泊の日程であった。須賀川通過の六月二十八日は市日であり、多くの人々が好奇の目を政利にそそいだという。
 一度もわが領地を踏んだことのない藩主であったが「殿の領地はこの西方だった」といわれ籠からのぞいたと伝えられている。

 鶴岡に禁錮中の無道な振舞についてはこの際記述を省略するが、鶴岡市史によると「出雲守一件は事件そのものは実にささいなものであったが、幕府の御用に関することであったので、十四万石の荘内藩を震憾せしめる程の大事件に発展したのである」と記されている。そうした非義の罪により元禄十五年六月二十六日水野監物忠之に預け替えとなり、三河岡崎城本丸の中に幽閉され、宝永四年(一七〇七年)十二月八日死去。岡崎源空寺に葬られた。
年六十七才、法名を法性院殿雪窓覚夢居士という。


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