ふるさと昔話 2 - 020/066page

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  水を大事にした人達と念仏清水の話

 

 岩瀬村には、北横田という五〇戸程の集落(ぶらく)があります。この土地は、川西(須賀川町より西の意味)では一番の田植えの早植えの所といわれて来ました。

 それは、この土地には大きな流れが無く、小さな溜め池と湧き水を大事に使って稲を作って来たので、早々と四月頃より水田に水を入れ、雨降りの一滴の水も大事にする様な稲作りをされて来たのです。

 昔々の話ですが、ある年に大変な日照りが続き、ついに四十日間も雨が降らず、方々の田んぼの稲が黒く枯れ始めました。
 集落(ぶらく)の人々は、古老を中心に毎夜相談をかさねました。

 その時、古老が言いました(そうだこの土地の川上にも弘法清水を出してもらおう)と、
 弘法清水とはこの集落(ぶらく)の川下にあり、その昔高貴な旅の和尚の念力に依り清水が湧き出たと言い伝えられて来て、この年も日照りをよそに、下流の稲は青々と育って居りました。大方の人々は半信半疑でしたが、最後の神だのみというか、仏様に御すがりしようということになりました。

 集落(ぶらく)の人々全員が手に手に酒と御供物をもち寄り、上流の谷地(湿地帯)に集まり、三日三晩念仏を唱えて廻ったそうです。
 祈り始めて三日目の晩、人々はつかれ果てて居りましたが、それでも御祈りを止めませんでした。
 谷地を取りまく周囲の山々は高く、山あいにのぞく空には数限りない星がまたたいて居りこれでは当分雨降りをのぞめそうもありませんでした。

 ところが夜半になって、疲れた人々の祈り声がとだえがちになった時「出た」という大きな声がひびき渡りました。見ると谷地の方々から、もくもくもくもくと清水が湧き出て来たのです。

 それ以後、土地の人々はこの清水を念仏清水と呼び、この尊い湧き水を仲良く大事に稲作りに利用したのです。

 それ以後、この土地に旱魃(かんばつ)はなくなり、又水争いの話を聞いた事もありません。


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