てんえいむら見て歩き トラベルブック -021/064page
牛ヶ城跡 うしがじょうあと
およそ500年前、室町時代に築 かれた山城で、当時は須賀川、岩 瀬郡を支配していた二階堂家の家 臣、矢田野阿波守(やたのあわのかみ)がこの城を守っ ていたといわれます。
天正18年(1590)には、仙台藩 祖伊達政宗(だてまさむね)の軍勢に攻められ一戦 を交えました。城の西南、関場山 には政宗の重臣、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)の指 揮する大軍が、南東方向の羽黒山 には石川昭光(いしかわあきみつ)が率いる軍が陣取 り、激しい戦いが展開。しかし、 耐える大里軍は頭脳的戦略でこれ を退けました。
このような戦いぶりから、牛ヶ 城は難攻不落の名城ともいわれ、 その陰には城代家老の桑名因幡(くわないなば)を はじめ多くの家臣たちが、日頃か ら下松本片平山の中腹にある竹駒 稲荷神社を深く信仰していたから といわれました。その後、このこ とを知った政宗は、この稲荷神社 を仙台の岩沼に分霊。祈願所とし て祭り、朝夕信仰を欠かさなかっ たといわれます。これが現在、日 本三稲荷の一つに数えられる竹駒 稲荷神社の始まりです。実は、竹 駒稲荷神社の元祖は天栄村にあっ たのです。後藤焼窯跡 ごとうやきかまあと
江戸時代後期には、既に焼き物 が作られていたという近世の窯跡。 窯跡からは摺鉢、壷、皿、上質の 花瓶などが発掘されています。陶 土は大平山から採れるネズミ色の 良質の粘土で、長沼町の長沼焼や 栃木県の益子焼にも使用されてい ます。後藤焼を完全な形で所有し ている人は村内にも少なく、幻の 焼き物ともいわれています。
ちなみに現在の国道294号線は 江戸時代の旧会津街道とほぼ重な り、この街道はさまざまな焼き物 が行き交った、焼き物の道ともい えそうです。御鍋神社 おなべじんじゃ
時は平安時代中期、平将門(たいらのまさかど)が戦 いに敗れ、密かに逃れて来たその 妻桔梗姫(ききょうひめ)と一族がこの地に隠れ住 んでいたという言い伝えがありま す。桔梗姫は後に将門の息子 平九郎(へいくろう)(家臣との説もあり)を出 産しますが、前途を悲観して自害 してしまいます。残された一族は 再起を祈願し、朝廷から賜った鍋 (鼎(かなえ))を御神体にして神社を祭り ました。それが御鍋神社の起源で す。境内には、神社を見守るかの ように樹齢500年の2本のヒバ (県緑の文化財指定)が空をさえ ぎり、鳥居の役目をしています。