てんえいむら見て歩き トラベルブック -022/064page
馬頭観音座像 ばとうかんのんざぞう
鎌倉〜室町時代の作といわれ、 寄木造りで三面八臂(ぴ)、頭上に馬頭 を乗せ憤怒(ふんぬ)の姿、左右八本の手に はそれぞれ宝輪、宝棒、数珠、剣 斧を持ち、合掌して宗教的理念を 表しています。昭和42年には福島 県重要文化財に指定されました。
また、この観音には弘法大師が この地を訪れた際に山中で霊木 (槻木) を見つけ、その木から三 体(馬頭観音、下郷町の小野観音、 竜生の聖観音) の仏像を刻んだと いう伝説も残されています。以来、 槻木を切り出した所を大槻、斧切 沢と呼ぶようになったとか。板小屋遺跡 いたごやいせき
寛永2年(1625) に蒲生氏郷と 共に会津入りした近江(今の滋賀 県) の木地師の集団が住んでいた 集落跡。そこに住む人々は轆轤(ろくろ)を 使い膳や椀、盆、玩具などの木地 工品を制作していました。
「日本国中木地師巡回帳簿」と いう記録には、最盛期には28戸が 暮らしていたと書かれ、白河藩主 松平定信もここを訪れています。 しかし、200余年の繁栄を続けた 後、この村も天保の大飢饉に見舞 われ、村は崩壊。現在、遺跡には 90基ほどの墓碑群が並び、花や季 節の果物が供えられています。馬入峠堡塁跡 ばにゅうとうげほうるいあと
更目木と郡山市福良の境、馬入 峠の頂上 (標高740m) に残る土 塁。
慶長5年(1600) 関ケ原の戦い がおこり、西軍の石田三成に味方 した上杉景勝が徳川家康を敵にま わして120万石の会津を守るため に構築したものです。しかし、実 際には家康軍の会津攻めは行われ ず、東軍の大勝、よって上杉景勝 は西軍に味方したため、米沢30万 石とされました。また、戊辰戦争 のときにも会津藩はこの土塁を修 復し、官軍の攻撃に備えたといわ れています。牧之内宿 まきのうちじゅく
およそ350年前、江戸時代から 続いた宿場町。復元された一里壇 と樹齢何百年という見事な屋敷林 が歴史の流れとノスタルジックな 昔の面影を漂わせています。当時 は、この街道沿いに旅籠(はたご)が建ち並 んでいました。現在では当時のよ うな茅葺き屋根の建物を見ること はできません。しかし、間口が狭 く奥行きのある宿場町特有の町制 は残り、今でも「本陣」「江戸屋」 「河内屋」「柏屋」などの昔の屋号 で人々は呼びあっています。周辺 の路地は、歴史漂う緑の風を受け てのんびりと散策するのにオスス メのスポットです。