第3・4学年社会科学習資料 わたしたちの玉川村 - 075/102page
龍崎(たつざき)村では、江戸時代末期から明治中期にかけて、岩法寺村内にたくさんのため池をつくりました。しかし、そのためには、かわりの土地を岩法寺村と交換(こうかん)しなければなりませんでした。今のあら池,三ツ池,こおり池などは、どれも岩法寺地内につくられた龍崎村のため池です。
次の資料を読み、あら池をつくり、その水路(すいろ)を修理(しゅうり)し守るために、当時の龍崎村の人々がどんな苦労(くろう)をしてきたか、調べてみましょう。エ あら池の工事のようす
(玉川村史)
江戸時代末期の龍崎村に、鈴木磯吉(いそきち)という人がいました。鈴木磯吉は、村の人々が水不足で苦しむのを見かねて、自分で山をほって水を通し、日照りの害をなくそうとしました。小林維光(これみつ)が、そのことを知り、大変感動(たいへんかんどう)しました。そして、さっそく藩主(はんしゅ)に工事を願い出て、代官(だいかん)が土地を検分(けんぶん)することになりました。そして、ため池をつくる工事のために、玄米(げんまい)100石(こく)と金250両(りょう)を出してもらえることになったのです。
こうして、元治元年(1864年)にあら池ができ上がり、龍崎村の田畑にはじめて水を引くことができました。
ところが、明治9年に、その水路(すいろ)がふさがってしまい、水が流れなくなり、稲(いね)はたちまちかれてしまいました。今度は県に願い出て、367円(現在の約715万円)の補助(ほじょ)で、明治10年3月に工事が始まりました。その工事は、幅(はば)8間(14.4m)、下幅(したはば)2間(けん)(3.6m)、高さ4丈6尺(13.8m)、延(えん)長81間(けん)(145.8m)という大がかりなものでした。この大変(たいへん)むずかしい工事は、ほとんど村の人たちの力で行われました。のべ2,870人というたくさんの人の努力(どりょく)によって6月18日にとうとう完成(かんせい)しました。
その後、明治22年に木の樋(とい)はほとんどくさってしまい、水路がまたふさがってしまいました。小林維光は、また県に願い出て、補助金300円(現在の約345万円)で木の樋を石管にかえる工事に取りかかり、やっと完成(かんせい)させました。
これらの3度に及ぶむずかしい工事に、村の人々は力を合わせて取り組んできたのです。