あさかわまちが生んだ偉人-040/093page
その年の九月には、ブリュッセルの国際学会に、日本代表として出席して、世界中の医学者を前に堂々と研究発表をし、その研究発表の内容について高く評価されました。
三
富三は、昭和十八年(一九四三年)、ラットの腹水肉腫の発見に成功しました。それを「長崎系腹水肉腫」と命名しました。後に「吉田肉腫」と改名され、ガンの研究の発展に、大きな役割を果たすことになりました。
これは、富三の熱心な研究精神の成果でした。研究に熱中すると、夜も寝ないくらいにがんばりましたので、多くの人たちから尊敬されました。
昭和十九年(一九四四年)、東北帝国大学(現在の東北大学)の教授となり、長崎を離れましたが、翌年の八月には、長崎に原子爆弾が落とされ、長崎医科大学は、全滅しました。もし、長崎に残っていたら、富三の生命もなかったかもしれません。人間の運命ということについて、富三自身が
1949年(昭和24年)9月 46歳
東北大学の研究室で。