あさかわまちが生んだ偉人-042/093page
マ・ペルー・メキシコ・米国・ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・エジプトなどです。富三の活躍する姿が、目に見えるようです。
同じ年に、世界対癌連合会副会長(アジア・アフリカ地区長)の要職にも就任しました。まさに、世界の吉田富三となったわけです。
昭和三十年(一九五五年)、母ナヲさんが亡くなりました。富三は、最期の時に、大きな声で母を呼び、泣きくずれました。父と若くして別れ、母ナヲさんの愛情を心に秘めて、学問の道に励んできた富三の、母を思う悲しみの姿に、まわりの人たちも強く感動しました。
しかし、富三は、悲しみに負けている人ではありませんでした。医者として、母の病気の原因を調べる決意をして、主治医だった、富永健先生の手を借りて解剖し、その原因をつきとめました。これは、富三が科学者として深い探究心を持っていた証拠です。
四
昭和三十四年(一九五九年)十一月三日の文化
1951年(昭和26年)48歳
「吉田肉腫」昭和天皇の天覧を賜る