あさかわまちが生んだ偉人-043/093page
の日に、富三は、それまでの優れた研究が認められて、文化勲章を受章しました。五十六歳という若さでした。
受章の知らせば、故郷浅川町にもとどき、町の人たちは、町の名誉として喜びました。そして、一ヶ月後の十二月五日、富三は文化勲章を胸に故郷に帰り、町の人たちに受章の報告をするとともに、まっ先に母のお墓に報告しました。町の人たちも、町長さんを始め小学生も町外れまで出迎えました。また、その時は、富三の大好きな花火も空高くあげられ、その音は遠く響きわたりました。文化勲章受章後も、富三は、研究に、国際会議にますます多忙をきわめましたが、持ち前の不屈の精神でやりとげていきました。
昭和三十七年(一九六二年)、五十九歳の時に、第二回日米科学協力委員会に出席のため、アメリカに行って、時のケネディ大統領と会見しました。また同じ年、第八回国際癌学会議に出席のため、モスクワに出張し、続けてドイツチェコ・ベルギー・フィンランド・スイスなども訪問しました。
特に昭和四十一年には、東京に世界の医学者四千人を集め「国際癌学会」を開き、会長を務めました。それは世界の医学史に残る大きな功績でした。
富三は、東京大学医学部長や日本学術会議会副会長などと、たくさんの要職