あさかわまちが生んだ偉人-044/093page
に就きました。また、専門の医学ばかりでなく、教育についても、国語審議会委員をつとめ、わが国の国語の正しい在り方について、「漢字かなまじり文」の考え方をもとに、大きな功績を残しました。その他に、文学や美術、特に俳句については、高い見識を持っていました。そのことは、富三が日頃、新聞や雑誌に書いた文章をまとめて、「生命と言葉」というりっぱな本を、昭和四十七年二月二十日に、読売新聞社から出版したことでもわかります。
五
富三の偉かったところは、学問のことばかりでなく、日頃の生活において人を差別しない温い心を持っていたことです。郷里に帰れば、郷里の言葉で人々とお話をし、誰とでも温く接しました。また、花火が大好きで、学生時代には、帰省した時など、両町青年会にまじって花火作りをしました。後年、大学者となってからも、研究中にでも、花火の音がすると、外にとび出して空を見上げたということです。東京では川開き花火大会の審査員もつと
1959年(昭和34年)56歳
11月3日文化勲章を受章の日に皇居からの帰途,喜美子夫人と。