あさかわまちが生んだ偉人-045/093page
めました。
富三の心には、いつも故郷浅川の風景があったのだと思います。それは、富三の俳句によくあらわれています。
浮く雲の数増しにけり秋の空
ああ秋ぞ幼きころの百舌の声
日は照れど梢に荒き秋の風
少年の日の城山の姿や、その城山の松風の音や、那須連山の美しさが、富三の心に生涯焼きついていたのでしょう。
昭和四十年(一九六五年)に浅川町では、富三の優れた功績に対して、町民の誇りとして、名誉町民の称号を贈って称えました。また、昭和五十年十二月十日には、浅川町名誉町民顕彰碑建設委員会によって、富三の胸像が、中央公民館の前庭に建立されました。
このように、日本の医学ばかりでなく、世界の医学の発展に、大きな力を尽くした富三は、昭和四十七年十一月一日、それまでも少しずつ悪かった健康状態だったのですが、ついに病気が悪化して、東京の杏雲堂病院に入院しました。病名は、「肺繊維症」という重い病気でした。入院してから一時、良くなりま