あさかわまちが生んだ偉人-063/093page

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4 再び困難を乗り越えて
「ようし、もう一度やり直しだ。」
と思いたち、稔が再び内田産業株式会社を設立したのは、昭和二十一年一月のことです。
そのころは、まだ、戦争の痛手があちこちに見られ、交通機関もなかなか普及しないうえに、原料も外国から輸入できるのはほんの少しだったので、手にいれるのに苦労しました。
また、「真剣な気持ちで自分の腕をみがこう。会社のためにがんばろう。」という気持ちの人たちが集まらず、この点でも大変でした。
そのうえ、仕事がうまくいかないうちから従業員や役員に給料やボーナスをきちんと支払わなければならなかったので、お金のやりくりに苦労しました。
お金のやりくりの一つの方法として、稔は「私は仕事がうまく行くまでは給料はいらない。」と心にきめ、五年間は一円も給料を自分に当てませんでした。
こういう中で、まず、従業員を第一級の技術者にしょうと努力しました。

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