あさかわまちが生んだ偉人-081/093page
ませんでした。みんな、何をしていいのか見当がつきませんでした。内田製作所の跡地には、麦やサツマイモ、サトウキビなどが植えられました。そんなふうにして、毎日の生活を送っていたのです。
昭和二十二年(一九四七年)、内田製作所は内田産業株式会社と会社の名前を改め、再出発しました。いろいろな部品の生産と修理の仕事を始めたのです。部品を作る会社や修理をする会社が少なかったので、たくさんの仕事がありました。本田技研の下請工場になったのもこの頃です。
しかし、仕事が順調にいくようになるまでは、大変だったのです。給料を従業員に支払うと、社長の分がないこともたびたびでした。そこで、稔は、「五年間は社長の給料はない」として従業員の給料を確保することに努力しました。その間は、奥さんの内職と工場の空き地で取れる
内田式ギアポンプと稔翁