あさかわまちが生んだ偉人-083/093page

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した。また、昭和三十七年(一九六二年)、土浦に工場が建てられました。従業員も三百人くらいになりました。いろいろと難しい仕事もありましたが、工夫しながら次々と新しい部品を作りだしていきました。しかし、この頃から、日本の景気も少しずつ悪くなってきました。
全国各地では、働く人たちによって、労働組合を作る運動が盛んになってきました。内田油圧にもこの組合ができました。こんな時、稔は社長として妨害やいやがらせをしませんでした。稔は、仕事を通してみんなが仲良くすることや、心を一つにして仕事を進めることの大切さが分かっていたからです。
稔の生活は大変質素でした。いつも、従業員や会社のことを考えていました。稔は、毎日現場にいきました。そして、作業服(ナッパ服)を着て若い従業員と仕事をしました。その合間に、たまには冗談を言ったり、いつも考えている
中国視察の時
中国視察の時

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