三春の歴史-030/52page

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2)三春と学問

ア.藩校

七代目の藩主を「秋田倩季」といいましたが、倩季の時代は江戸時代の中ごろにあたり、たびたび凶作にあい、米のとれ高がへって藩の財政がとても苦しくなりました。
また城下に火災があり、城内もほとんど灰になってしまい、城の再建が大きな負担になりました。
藩の財政をたてなおすために、けん約令を出したり、たばこの集荷、出荷を藩が取り扱うようにして、税をとるなど、たばこの専売制もおこないました。
さらに、藩を立て直すには、武芸も大切だが、実用的な学問を学ばせることも大切だと考えて、藩の学校をつくりました。
藩の学校を「講所」といい、授業をするところを「明徳堂」とよびました。
三春町歴史民俗資料館の下の駐車場に「講所」がありましたが、「藩講所表門」は現在三春小学校の校門に移されています。
藩校には、三春藩の上級武士の家の男子と、中級武士の家の長男だけが入学を許可されていました。それ以外の者でも特に熱心な者は、学長に申し出た上で、夜学や書室にて授業を受けることが認められていました(河野広中が窓の外で授業を受け、その後学長から特別講義を受けたことが伝えられています)。
藩校の目的は、藩の指導者を養成することにあり、藩の財政を立て直すために、算術や洋学、医学、天文学などが重視されました。
科目は、文科と武科に分かれ、授業は一人ずつの個人授業であったとされています。
この藩校からは、高名な多くの学者や和算家、画家などのすぐれた人たちが出ています。
また、福島県内には、以下のような藩校が作られていました。

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