西郷村社会科副読本 DATA BOOK-057/147page

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「昨日からの旅は真に苦しく、雪の山道で凍えそうな一夜を過さねばならなかった。この街道を改修し、手綱坂の麓に宿場をつくれば、旅人はどんなに助かるか……」
 その後、孫左衛門は自ら山麓の真名子に移り、歳月を重ねて羽鳥までの悪路を改修した。やがて、この街道が会津の回米道となるにいたり真名子は宿場としてにぎわった。村人たちは孫左衛門の労を謝し、新田の庄屋とし子孫は後々まで栄えたという。
北辰一刀流千葉四天王のひとり
森要蔵の墓
 ここ西郷村下羽太の東谷山大龍寺境内の鬱蒼とした杉木立の一角に苔むした墓がある。この墓には戊辰の役で散った森要蔵や会津藩士ら18人が供養されている。
 森要蔵は、下総の国(現在の千葉県)飯野藩士、北辰一刀流千葉周作の門下、四天王の一人といわれた幕末の剣豪である。
 戊辰の戦役では飯野藩主保科弾正正益が会津藩保科正之の流れをくむところから、会津軍に合流、一子虎尾とともに官軍を相手に戦うことになった。
 戦場での要蔵父子は、まるで舞踊のような剣技を見せて勇猛果敢に戦ったが、7月1日羽太戸ノ内で父子とも銃弾に倒れた。要蔵59才、虎尾若干16才であった。この父子をあわれんだ村人は、なにがしかの寄進を集め明治30年旧4月8日墓碑を建立し手厚く供養した。
 この要蔵の娘文(ふみ)の子が野間清治で、この人は人も知る講談社の創設者である。
4.大字熊倉
谷地中信地蔵
 嘉永年中、谷地中に信太郎という年老いた百姓夫婦がいた。村の入会山に村人たちと萱刈りにいった際、野火に逢い、二人共に焼け死んだ。村人は不慮の死に会った二人のため地蔵を建てて供養した。後に、これを信地蔵と呼ぶようになったという。
5.大字真船
真船の地名の起こり
真船地蔵
 白河市道場町は小峰(しょうほう)寺に、馬船地蔵と呼ばれる地蔵菩薩が安置されている。弘法大師作とも伝えられる身丈90センチメートル余の木造立像である。
 延元3年(1338)南朝の雄結城宗廣公が戦陣の途中伊勢で病没の時、訃報に先立ち白河に来たり、嗣子(しし)親朝にそのことを告げ、供養のうえ忽然と去った旅僧があったという。これすなわち馬船地蔵の化身なりと伝えられる。
 旧記に、
 真船のあたりに夜毎光を放つものあり、村人怪しみ近づき見れば、地蔵の形をせし木より光が出てあり。地蔵の背中、船のごとく見えたれば、諸人奇異の念を凝らす、よって真船村の名起こる。
とある。この地蔵は宗廣死後結城家の信奉を集め、地蔵堂が建立され奉安されたという(『小峰寺記』)。
 また、カロウトに舟形の大石があることから、真船村の地名が起こるとも伝えられる。

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