西郷村社会科副読本 DATA BOOK-059/147page

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われ、別名龍宮出現の薬師ともいう。よって、薬師山を珠釣(たまつり)山とも呼ぶ(『白河風土記』)。
 また、別説に班宗寺の開山和尚州安が斑目信濃守に招かれ高助に移った折、霊岩をうがち洞穴を開き薬師を安置したともいわれている(『白河古事考』)。
忍びと山の娘
 中世、各地に豪族群雄割居し、勢力の拡張に明け暮れていたころ、白河一円の領主であった結城氏の重臣として斑目氏は鶴生の地を知行していた。
 時に、隣国会津に野心沸々たる豪族がいた。彼もまた領土伸張に奔走し、白河に野望の矛先を向け、その隙をうかがっていた。
 ころは5月、会津の忍びが鶴生の殿畑で野良着の娘に出会った。忍びが行先を尋ねると、娘は即座に答えた。
 冬ほきて 夏枯れ草(麦)を 刈りに行く
 忍びはいたく驚いた。村の娘でさえ、かくの如く才あるとすれば、うかつに領内に入ることはかなわぬとその機智に追い返されるように会津目ざして逃げ帰った。
 この娘こそ、■秀の誉れも高い斑目家の姫であったという。かくして、斑目氏は治乱興亡の世にも領民共々大平であったと伝えられている。
根っ木羽右衛門
 昔、高助に羽右衛門という並はずれた力持ちがいた。
 ある日、猟好きの羽右衛門が獲物を追って日光近くまで来た時、道路に人だかりがあった。見ると、倒れかかった大木が道をふさぎ4、50人の人足が幹に縄をしばり退けようとしていた。しかし、大木は少しも動かず、役人はいらだち怒鳴るばかり。
 見ていた羽右衛門は、思わず笑い出した。怒った役人は刀に手を掛け、切り捨てまじき見幕になった。
 羽右衛門は少しもさわがず、大木に取り組んだ。やがて、顔、首筋、腕に紅色がさし、2、3回体を揺すったとみるや、大きな根が現れた。羽右衛門は、高々と頭上まで持ち上げ、通りの邪魔にならない道のかたわらに放り投げた。
 あまりの怪力に、役人・人足そして見物人も口を開けたまま。それを背に、羽右衛門はゆうゆうと去っていったと伝えられている。
河内渓谷(かわうづけいこく)(楽翁溪)(らくおうけい)
 甲子と並び賞される奇岩奇景に富んだ景勝の地として河内(楽翁渓)がある。山深く谷を辿るに連れて千変万化する眺めは人々の心を捉え、見上げる岩壁より落下する飛泉は飛滝・不動滝・かつら滝・萱滝・洞滝・山梨滝・井口滝・かまめ滝・見付滝・女熊滝・男熊滝・北滝など大小合わせ九十九滝と言われ、曲って早瀬をなしよどんで深い渕となる。水に映える春の八州つつじや秋の紅葉等、その景観の美は、人をして飽きさせることがない。松平定信はこの地を「陸奥の耶馬渓(やばけい)」と絶賛したという(「白河風土記」)。
 定信はこの山中の小平を遊歓の地と定めたが「河内の全景」を一瞬の内に望むべくもなし、と嘆いた。定信の愛した地であるので楽翁渓ともいう。彼は、その著書「退閑雑記」の中に次のように書いている。
 川内てふ山あり(川内とかいて川うつとはいふ)つつじ盛なるころは、人々見に行ことなり、秋のもみぢは、殊にすぐれたるけしきなり、諸州ありきて名山大川見たるものも、此山のけしきみては、皆々おどろきぬる事なりただ二里計の間峨々たる山の間、澗水を左にし右にして行なり、布瀑も水渇せざれば、五、六十ケ所よりおちて、山間の極まるところに、玉のすだれかけたらんやうなるたきあり、もみじに行たるが、十歩にた

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