西郷村社会科副読本 DATA BOOK-060/147page
ちとどまり、五歩にみかへりして、そのけしき賞しぬるが、山へ深く入りぬれば弥奇景なり、はては人々黙しておともせず、されば言葉もて感賞するは浅かりけり、このとき善画のものの、ことに山を好みぬるをつれ行たるが、あまりにも感じて、また明けの日行たりし、さるにうちつづきて行たらば、万分の一は画にもかき得てんとおもひたるが、けふみぬればきのふよりげにまさりて、筆の及ばざるをしれりといひぬ、総じて真によきものは、はじめはさしても思はずして、みるごとによくぞおもふ
この外にも河内に関する名文は多く、「白河風土記」の著者広瀬典のものをはじめ白河藩第17代藩主阿部正備(養浩)の「河内紀行」などが残る。
7.大字小田倉
子安観音
延久3年(1071)4月18日、小田新田村を開いた濃土の阿房之助という人が霊夢のお告げによって北流する河の淵から如意輪観音を拾いあげ堂宇を造り奉安した。
再びお告げがあった。
「若し、女人が深く敬い供養するなら、我はその者に安産を得させよう。」やがて、霊験あらたかな観音のうわさが四方に広がり、善男善女が尊像をあがめ、御利益(ごりやく)ある子安観音として敬仰したという。
城主・家中の信仰も厚く、寛保元年(1741)白河城主松平明矩は、四ツ谷深巌寺の薬師堂をここに移して精舎とした。
神木の老杉二幹にちなみ夫婦杉の子安観音とも呼ばれる。
那須権現参り
一の鳥居
4月8日は那須茶臼岳のお山開きである。この日お山はボンデンを上げ豊作と息災を願う人々で賑う。
前日、那須温泉に泊った村々の若者は、8日早朝水ごおりをとって権現さまに向う。途中「なんまいだんぼ六根清浄」を唱えて、ボンデンを担ぎ上げ奉納したという。この行事は大正末年ころまで毎年欠かさず行われた。
この「那須権現一の鳥居」は当地方の人々が那須岳参けいの第一の鳥居であり、鳥居や供養塔が立ち並び神聖な場所とされていた。
現在の鳥居は天保7年「天保の大凶作」の最中に立てられたもので、近年まで崩壊していたが昭和57年再建された。
天保の飢きんから農民を救った
川崎弥助報徳碑
全国的な凶作に見舞われた天保の飢きんでは、もともと高冷地に位置するやせ地だったために、西郷村では、収穫皆無というありさまで、草根木皮はおろか、犬猫までも食い尽し、飢餓のため病死人が各村に続出した。そこで、白河藩主阿部正瞭は、白河の豪商に農民の救済のための金穀の献納を呼びかけた。
このうちの一人、川崎弥助は率先して金600両とアワ、ヒエなどを献上、これにより多くの百姓が飢えから救われた。弥助はこの貢献を高く評価され天保7年(1836年)西郷代官に任命され、異例の民間登用となったが、その後も善政をしき、村民から心より慕われたという。
天保12年村々の百姓は弥助に感謝し、報徳碑をここに立てた。
この碑のとなりには、山岳信仰として知られる那須権現の出発点一の鳥居がある。