西郷村社会科副読本 DATA BOOK-061/147page
8.甲子
甲子湯と州安和尚
応永のころ(1394〜1427)、伊豆の国(現静岡県中伊豆町)の最勝院開山和尚吾宝(ごほう)禅師の高弟に州安(すあん)という僧があった。この和尚が諸国行脚(あんぎゃ)(修行)の途中、白河の関を過ぎようとした時、はるか西の山々に瑞雲(ずいうん)(めでたい雲)がたなびいていた。和尚は彼岸の地に引かれるように赴いた。そこはまさに心に描いたとおりの霊地であった。そこでさっそく庵を結び、日夜修禅の行を積んだ。
ある夜、和尚を訪ねる老翁があった。茅屋(ぼうおく)に終夜語りあったところ、この山の隅には誰も知らない霊泉があり、これを病で苦しむ人々の役にたてて欲しいという。話が終わると、老翁は夜明けを待たずに去っていった。
朝になり、和尚は老翁に教しえられたとおり霊泉を見つけた。この時、鶴生村の猟夫も霊夢の知らせということで、たまたま和尚と出会い、二人は共々そこを湯治場とすることにしたという。
また、この年が甲子(きのえね)にあたっていたため、甲子湯の名がおこるという。
甲子湯と菊池大隅
菊池大隅基吉は蒲生家の家臣であったが主氏郷の死後、鶴生村に浪々の日々を送っていた。
慶長5年(1600)の冬のある日、基吉は甲子山の近くに猟に行った。その時、見上げる木々の上をざわめきと影が通りすぎた。とっさに鉄砲の引き鉄(がね)を引くと手応えがあり、足元の白い雪の上に血が滴り落ちてきた。点々と続く血痕を追って行くと、猿が何と温泉で傷を癒していた。
寛永13年(1636)基吉の子将監は甲子の湯を開くことを時の領主丹羽長重公に願い許された。
かくして、里の人々も温泉で湯治をするようになったと伝えられる。
勝花亭と甲子山大黒天
西郷村で名勝と称されるのは甲子と河内です。白河藩第12代藩主となった松平定信(楽翁と号す)は、天明4年7月1日封国白河に入部し、9月ごろ管内巡視をかね甲子に入湯しているが、その模様を「関の秋風」に次のように書いている。
去年の9月初め甲子の山へ行き侍りぬ、城をは暁ころに出しに四、五里にして夜は明たり
かきかね橋といへるは筏なとのやうに木の枝をあみならべて、山の岨へかけわたしたり、蜀(中国)のかけはしなといへるもこの類にやあらんその橋わたりて、是より先は坂のけはしさいふべくもあらずくるし、温泉のけしきも亦おかし、予道すから此景色画きて都のつとにせばやとおもひたれとも、言の葉も筆もいかに文くはへ花さかせ、筆をまわし五彩をほどこしたればとて、万分の一つにもいかで及び侍らん、白川へ至りてかしの山みさらんは、孔子の門過ぎて入さるか如し、かしの山へ至りて楓葉の景色みざらんは、堂に至りて室にいらさるが如し、もみじの紅ゐ水の白妙よりして、大なる石は十歩、二十歩におよひ、小さなるは目にも及はす、皆形をなしつつことことの色をあらはして、水により山にそひへ、谷にのぞみ坂に横たはるさまいひ尽しかたし、まいて風雨霜雪、花月のおりおり、うつりゆくけしきはいかがあらん、道のけはしさをいといなは、又かかるなかめも知らじ、虎穴に入らされは虎児を得さるといふにひとしとやせん
楽翁は、この甲子の秋の風光を特に愛し、しばしば遊歓し、勝花亭に休泊した。亭は社牧の「霜葉紅於二月花」(唐詩)より命名するという。
この亭のかたわらに甲子大黒天碑があり、絵は谷文晁、書は楽翁自らの手になるものと伝えられる。