社会資料第3・4学年 わたしたちの村たいしん-100/105page
(2)開進地区の開たく
開進地区の水田
大正6年(1917年)ごろに開たくされた、開進地区は、最近まで「越後開こん」とよばれてきました。越後というのは、今の新潟県のことです。それなのに、どうしてこんな名前がつけられたのでしょう。
越後の国、現在の新潟県の三島郡越路町は、信濃川の近くにあるため、雨の日がつづいたり、台風がきたりすると、そのたびに川がはんらんし、水びたしになってこまっていました。そのころの川のていぼうは、今のようにしっかりしたものではなかったために、せっかくみのった稲が流されてしまい、一つぶの米もとれなかった年が、たびたびありました。
町の人々は、どこか別の土地にうつり住んで、安心して米作りをしたいものだと、考えるようになりました。
ちょうどそんな時、越後の国から白河地方の杜氏(酒をつくる人)として働きに来ていた人から、「白河の近くには、開たくすれば米作りができる土地がある。」と聞かされました。
住みなれた町をはなれるのは、さびしく、かなしいことでしたが、なんとかやってみようと、決心しました。
農地を作るといっても、山にかこまれたあれ地です。今のように、ブルドーザーやショベルカーがあるわけではありません。くわなどを使って土をほり起こし、「大八車」や「もっこ」で土をはこびました。思うように仕事が進まず、毎日毎日の土とのたたかいは、苦しいことばかりでした。