郡、東は石城郡、北は石背部、西は会津郡をそれぞれ境とし坂東と陸奥の出入口に位置する地理的位置にあり、白河関をもつ。この範囲は現在の白河市、西白河郡(西郷村・表郷村・東村・中島村・矢吹町・泉崎村・大信村・天栄村の一部〕、東白河郡(棚倉町・塙町矢祭町・鮫川村・古殿町)、石川郡(石川町・玉川村・平田村・浅川町)、茨城県大子町の1市7町12村にわたる拡大な地域である。ちなみに泉崎村は当時の小田郷にあたると推定されている。郷衙の置かれていた地域でもある。次に古代白河郡に関して直接ふれられている文献史料であるが最も古い時期のものとして養老2年(718)5月2日の記事がある。(続日本紀)この記事は前に述べた石背国と石城国設置の記事でこの時、能登国・安房国も同時に設置されている。この石背国の設置についてはその成立を疑問視されたこともあったが養老4年の陸奥・石背・石城三国の調庸併びに租の減免記事(類聚国史巻83)などあるいは養老令の、軍防令帳内条の帳内(ちょうだい)、資人は三関・大宰部内・陸奥・石城・石背・越中・越後に籍を置く人から取ることを禁じた規定、さらには、戸令新付条での新たに戸籍を登録する時、本人についての本貫の地の定まっていない理由を問い、逃亡または偽証でないことを確認の上許可し、もし二つの本貫あれば本来の籍にしたがって定める。ただし、大宰部内及び三越(越後・越前・越中)陸奥・石城・石背の三国については、現在この地を居住地としているものを、ここに本貫地と定めよ。といった養老令の規定などから石背国は実際に設置され機能していた実在の国であったことがわかる。次に見られる記事は神亀5年4月11日(728)の記事で陸奥国の要請で新たに白河軍団を設置した記事である。この記事のもつ重要な意味は、白河軍団が陸奥国の行政下にあるところにある。養老2年5月白河郡を含む石背5郡は『石背国』として発足したわけであるが、この記事として10年後にはこの石背国は廃止され、またもとの陸奥国に併合されていたことをうらづける記事である。次に出てくる記事は神護景雲3年の賜姓記事で陸奥国ほぼ全域の19郡に及び、その賜姓者は63名で白河郡では丈部子老(はせつかべおゆ)と靱大伴部継人(ゆげいおおともべのつぎひと)の2名があげられている。その後もこういった賜姓記事は延暦16年1月13日(797)に白河郡大伴部足猪に白河連を、さらには承和10年11月16日(843)白河郡の百姓外従8位上勲9等狛造智成(こまつくりのともなり)戸1烟(戸)陸奥白河連の姓を、嘉祥元年5月13日(848)白河郡大領外正7位上奈須直赤龍に阿部陸奥臣を、それぞれ賜った記事が見られる。
白河軍団
宝亀11年12月27日(780)の記事は、陸奥鎮守副将軍百済王俊哲が伊治公呰麻呂(いぢのきみあざまろ)征討で賊軍に包囲され、この危機を脱するため桃生・白河郡の郡神11社に祈願した所、これが功をそうしたと記載されているものである。世にいう伊治公呰麻呂の乱であるが、この事件は奈良時代に於ける東北経営を考える上で重要な意味をもつものである。呰麻呂は古代蝦夷の大族長で、現在の宮城県北部にあたる当時の伊治郡の長官であるが、後に按察使紀広純(あぜちきのひろずみ)による蝦夷征討に従って功をたてるなどし、宝亀9年には蝦夷として進み得た者としては最高位である外従五位下の位階を授けられた。また同時に大領となって伊治城の実権を掌握し、しだいに勢力を増して国府に対抗する存在となった。この乱の直接のきっかけは牡鹿郡道嶋大楯(みちしまのおおたて)に蝦夷と呼ばれたことに、軽蔑されたとはらを立て宝亀11年(780)、紀広純と道嶋大楯を伊治域で殺し、さらにその勢は多賀城を焼き打ちするまでに発展した。この乱のもつ意味は単なる個人的な感情のもつれから発生したものではなく、根底には当時の蝦夷経営といった社会的背景を大きく反映した事件である。この乱の鎮圧にさいし、おそらく白河軍団兵もこの包囲の中にあったものであろう。祈願した神社は桃生郡・白河