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郡で11社とあるが、ちなみに延喜式内社は桃生郡6社、白河郡7社あり合計13座あるが、具体的にどの神社に祈願したかは明らかでない。また白河軍団は神亀5年(724)に設置されたものであることは先にも述べたが以後たびたび関連した資料が見られる。例えば多賀城跡外郭東南隅の伊治公呰麻呂の乱で焼失した後に建てられた建物跡の整地層より出土した木簡には『白河軍団から進上した射手(守備兵)44人の守備配置』を記した記事が見られるなど、あるいは弘仁6年(815)8月23日の太政官符では、安積団・行方団・小田団とともに白河団も再度設置された記事がある。特にこの太政官符の記事からは『再度の白河軍団設置』を知ることができるため神亀5年に新設された白河軍団は一度廃止されたことになる。もちろん現在のところ白河軍団廃止を直接記した資料はない。律令制度の中での軍団の成立時期はあまり明瞭ではないが、少くても持統天皇3年(689)の段階には具体的な組織を知ることはできないながらも存在した様であり、その後大宝2年(702)施行の大宝律令によって細部構成が定められた様である。さらに慶雲(けいうん)元年(704)に諸国の兵士を団別(軍団別)に分け10番とした。養老3年(719)には志摩・若狭・淡路等の軍団は廃止され、その他の諸国に於いても軍団及び兵士の数が大巾に削減され、さらに天平4年(732)の東海・東山・山陰・西海諸道の節度使(せつどし)任命に伴なっても兵士の数を減らしている。そして天平11年(740)5月、三関国(伊勢田・美濃国・越前国)・陸奥国・出羽国・越後国・長門国及び大宰管内諸国(九州)を除いた地域で軍団か廃止される。これは国内に設置された軍団の機能は陸奥国に於ける蝦夷征伐と大平11年に起きた藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)の乱に部分的に動員されたのみで、対外的な動員は皆無の状況にあった。そして軍団兵士の日常は、国司(こくし)・軍毅(ぐんき)のもとでの開墾・採新・雑用といった私的な仕事に駆使されるといった実情であった。こういった状況から次第に軍団そのものの規模が縮少され、やがて延暦11年(792)6月に社会状況の不安定にある陸奥国・出羽国・大宰管内のいわば辺要の地を除く諸国の軍団をすべて廃止せざるを得なかったものであろう。軍団については以上の様な変遷をたどれる。話しはまた白河軍団にもどるが、弘仁6年8月23日(815)の太政官符では、神亀5年(728)新設された白河軍団は、87年後の弘仁2年(815)に再度新設されていることがわかる。つまり白河軍団以下、安積軍団・行方軍団・小田軍団の4団は一度廃止され、陸奥国では名取団・玉造団の2団しか存在しなかった時代がある。この4団の廃止について直接触れた記録はないが、延暦11年(792)に於ける陸奥・出羽・佐渡・大宰管内諸国を除いた地域の軍団を廃止した後のことであろうか。またこの時代の対象となった白河団以下3軍団については、陸奥国内にあっても諸国並にあつかわれたものであろう。以上が白河軍団とその歴史的背景であるか、その所在地はもちろん古代白河郡内に設置されたものであると思われる。その推定地についてはあまり言及されたことはないが、その任務として兵器を備え、弓馬を調習し、有事には征討に従い、平時には倉庫・成隍(じょうこう)などの修理、関の守衛、天皇行幸時の護衛、外国使臣の送迎、犯罪者の護送などに従事し、また陣列を構成し観閲する。この様なことから推定すると大規模な施設を必要とし、かつ要衝の地に構えなければならない。現在、白河郡内ては白河市旗宿周辺と泉崎村関和久周辺に寺院跡及び官衙跡が確認されているが、伊賀館を含む関和久上町遺跡周辺が最有力地と考えたい。
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