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泉崎村内の文化財
村域の平面形は北西から南東にかけて約12km、南西から北東にかけて約3〜5.4kmの細長い地域で、南側では東流する阿武隈川が白河市と中島村の境界となっている。そしてほぼ中央部付近で北西から南東方向に泉川が流れ、矢吹町で合流する。現在、村内で発見され登録されている遺跡は、中央を流れる泉川の北側の地域と、村内南側の阿武隈川と泉川にはさまれた中間の地域に多く集中して認められ、一部泉川の南岸にあたる村内西側の泉崎・大田川地区にも分布する。分布する遺跡を時代別に観察すると現在のところ旧石器時代の遺物及び遺跡は村内では発見されていない。縄文時代の遺跡では泉川の北側の地域で踏瀬地区の滝原山A遺跡・同C遺跡・下滝山遺跡・石倉山遺跡・縄文時代前期の花積下層式、土器の出土する滝原前山A遺跡・石田原遺跡・踏瀬長峰遺跡・泉崎地区では縄文時代中期の土器が出土する白松山遺跡がありこのうち滝原山A遺跡・石倉山遺跡・滝原前山A遺跡・踏瀬長峰遺跡では古墳時代、奈良・平安時代の遺跡と複合する。また桎内(むぐろ)の泉川河床からは前・中・後期の土器が多く採集されており、さらに村域北西の大信村と隣接する三平遺跡では早期の茅山式土器が確認されている。泉川の南側地域では大田川地区で古墳時代〜奈良・平安時代にかけての遺跡と複合する高田上遺跡がある。また村域南側では泉川と阿武隈川にはさまれた地域で関和久地区の石名沢遺跡・常陸街道跡・庭渡神社遺跡などがあげられる。弥生時代の遺跡では現在の所、泉川の北側地域に確認されており、踏瀬地区で池ノ入山遺跡(18)・愛宕神社遺跡、泉崎地区では、金塚遺跡(22)・離山遺跡・鳥子後山遺跡・天王山遺跡・などがある。古墳時代の遺跡では集落跡及び
散布地として踏瀬地区の滝原山A・B・C遺跡・石倉山遺跡・滝原山A遺跡・石田原遺跡・井戸尻山遺跡・久保遺跡・二本栗遺跡・上礼堂遺跡などが存在し、このうち上礼堂遺跡では発掘調査の結果、奈良・平安時代の集落跡と複合して数軒の竪穴式住居跡が検出されている。横穴墓についでは踏瀬地区で下滝山横穴墓群・観音山横穴墓群・泉崎横穴墓群などがある。泉崎横穴墓群については大正3年に2基(5号・6号)発見され1基から鉄刀が検出された。その後昭和8年12月14日県道改修工事に伴なってさらに2基(1号・2号)発見され、村内在住の三村文吾氏によって発掘調査が実施されその結果、1号墓から土師器甕、2号墓から土師甕と須恵器高杯がそれぞれ出土した。さらに同年12月19日3号墓・4号墓が発見され、これも三村文吾氏によって発掘され4号墓より鉄刀・刀子・鉄環が出土し、この時4号墓に壁画の存在を確認した。この報道は当時、時事新報記者によって全国版で報道された。同12月24日さらに7号墓が発見されるが翌25日には埋め戻される。翌26日には県史跡天然物委員 堀江繁太郎氏、白河高等女学校教諭 高橋五郎氏、元白河高等女学校教諭 佐久間留男氏、白河中学校教諭 岩越二郎氏によって調査が実施され、一方では川崎小学校校長根本儀一氏、川崎村村長 赤沼龍二氏によって工事中止及び変更申請が土木監督所に提出され、県会議員 中目武功氏は横穴の保存と調査を依頼するため文部省に上京し、12月27・28日には文部省嘱託上田三平氏が現地調査を実施した。12月30日には伊東信雄氏も調査に参加し、1号墓・2号墓の実測を行なった。さらに調査は翌昭和9年1月5日から再開され、1月8日には6号墓の南側で須恵器窯跡
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