泉崎の文化財-000-08/27page
を発見した。この須恵器窯跡から出土した須恵器は近年になって5世紀末期(TK23型式)のもので東北地方でも最古の段階のものの一群であることが判った。調査は2月15日に終了し、2月28日に国の史跡になったものである。(―福島雅儀『7軒横穴群』矢吹町教育委員会 昭和58年3月より―)泉崎横穴墓の築造年代は7世紀頃と推定される。観音山横穴墓についても東北自動車道建設に伴なって昭和44年に発掘調査が実施され合計20基の横穴墓が調査され、3号墓からは蕨手刀が出土している。この横穴墓群の年代は7世紀後半代から8世紀にかけてと推定される。
古墳については踏瀬地区で長峰古墳・大田川地区で原山古堤群、泉崎地区で念物塚古墳群、同じく鳥子山古墳、同じく小林山古墳、北平山地区で東山古墳、同じく庚申山古墳などの古墳がある。このうち原山1号墳と東山古墳は発掘調査が実施されており、ともに小型前方後円墳である。築造年代は2基ともに5世紀末頃の築造と思われる。
奈良・平安時代の遺跡になると前代の遺跡に対して急増する。先ず散布地としては踏瀬地区で滝原山A・C遺跡・石原山遺跡・滝原前山A・B・C遺跡・踏瀬長峰遺跡・井戸尻山遺跡・久保遺跡・二本栗遺跡などあげられるがこれらの遺跡では奈良・平安時代の土器も散布し、その他にも縄文時代中期・古墳時代等の土船片も散布する場所も多い。大田川地区では高田遺跡・上礼堂遺跡があり、これらの遺跡からは古墳時代の土師器と奈良・平安時代の土器の他に古瓦片も散布する。特に上礼堂遺跡については平成4年度に発掘調査が実施され古墳時代・奈良時代・平安時代の堅穴式住居跡が確認されている。泉崎地区では証古遺跡・日渡山遺跡があり、いずれも奈良時代の土器を散布する。北平山地区では寺後遺跡があり土師器の他に古瓦片も出土している。関和久地区では新林遺跡・薬師堂遺跡が散布地としてあげられ奈良・平安時代の土器とともに古瓦も散布する。官衙跡では関和久遺跡及び関和久上町遺跡をあげることができる。関和久遺跡について直接学問的に注目されたのは大正15年故 岩越二郎氏による現地での古瓦採集にはじまる。発掘調査は昭和47年度から10ヵ年で実施され、古代白河郡衙と推定されるに至った。また上町遺跡については昭和57年度よりやはり10ヵ年実施された。いずれもほぼ同時代の遺跡であるが特に上町遺跡の位置づけが今後注目される。またこれら両遺跡に8世紀中頃供給した瓦窯跡として上町遺跡北側の丘稜北斜面で確認された関和久窯跡がある。合計5基の窯跡が確認され、このうち2基について発掘調査されている。中世の遺跡では城館跡として踏瀬地区で観音山の西側に石関館跡・大田川地区では朝日長者館がありいずれも周囲を深さ2.5〜3.7mの空掘がめぐらされている。泉崎地区では天正年間、辺見主膳正(へんみしゅぜんのしょう)の居館と伝えられる泉崎館跡があり、現在わずかに空掘の痕跡を残す。関和久地区では木内若狭(きのうちわかさ)の居館と伝えられる木ノ内山館跡・能田伊賀居館の伊賀館・上野館などがある。中世寺院跡では関和久地区で鎌倉時代、親鸞の孫如信の開山と伝えられる大綱堂跡がある。石仏・板碑も村内には多く遺存するが特に観音山磨崖供養塔婆群は著名である。踏瀬の観音山南斜面に高さ10m、巾約40mにわたって7段に彫られたものである。大正15年の調査では、板碑数326基が確認されていたが現在では風化・剥落等によってその数も減っている。近世の遺跡では泉崎の天皇山遺跡の供養塚、踏瀬の下滝山塚群、関和久の愛敬山経塚などがある。
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