棚倉町勢要覧 -018/034page
Town Features5歴史
紫衣事件と王室和尚
寛永四年(一六二七)、棚倉藩三代目藩主として内藤信照が棚倉藩に着任した年、中央では徳川幕府の体制を確立するうえで 重要な意味を持つ「紫衣(しえ)事件」が起こりました。「紫衣」とは、高徳僧侶に与えられる紫色の袈裟や法衣のことで、 従来は朝廷の権限によって下賜されるものでした。ところが、幕府は体制の強化を図ろうと、元和元年(一六一五)に 「禁中並公家諸法度」を制定して、天皇や公家衆の権限に制限を加え、法定制定後に出された朝廷の紫衣着用の勅命を無効とする 命令を出したのです。 この幕府の処置に反対した大徳寺や妙心寺などの僧のうち、中心人物の沢庵宗彭(たくあんそうほう)、玉質宗珀 (ぎょくしつそうはく)ら四名が処罰されました。 事件の中心人物のひとりの玉質宗珀が配流されてきたのが棚倉藩でした。流罪者とはいえ篤心家の信照によって宗珀は手厚く 迎えられ、赤館南麓の高徳時の草庵を結んで閉居しました。 そして、この地で三年の月日を過ごした後、流罪を解かれて京に戻りました。