塙町勢要覧 -009/026page
塙探訪
歴史、文化、伝統を探る―――
名代官・寺西封元
寺西封元は寛政4年、陸奥代官に任じられ、文化11年までの22年間、塙に在陣しました。 寺西代官は、荒廃した農村の立て直しに全精力を傾けるとともに、当地のすさんだ民風を改め るため、「寺西八ケ条」や「子孫繁昌手引草」などを配布し、民衆教化を積極的に進めました。 こうした精神は、現在、町が進めている"人づくり"や"町づくり"に受け継がれています。寛政5年、古くは「熊ノ森」と言われたこの土地に「向ケ岡公園」を造ったの は、名代官と慕われた寺西封元です。彼は窮民救済のために公園建造という土木 工事の仕事を地域の人々に与え、彼らの貧しい生活を支えました。それは今でい う大型公共事業のようなものだったと推測できます。
窮民を救い、窮民の汗によって完成したこの公園は、日本最初の庶民の公園と して伝えられ、今も町民の憩いの場になっています。
「塙代官所跡」は、亨保14年から慶応4年までの139年間、塙代官陣屋がここ に置かれていたことを物語る史跡です。
陣屋の敷地は約1650坪にもおよび、表門をはじめ御殿、公事方長屋、手代長 屋などの建物が建ち並び、周囲には堀が巡らされているという立派なものでした。 また、堀の外には年番所や土蔵などもあったと言われています。
こうした遺構からも、往時の代官の権威と威厳を偲ぶことができます。
「田中愿蔵刑場跡」は、幕末の志士、水戸天狗党の田中愿蔵が21才の若さで処刑 された刑場の跡です。
明治維新の引き金にもなった水戸天狗党は、天治元年に300名を越える党員 が八溝山に結集、再挙を企てたものの食糧が途絶え、空腹と前途への不安から分 裂・解散。志士たちは山麓の関門で次々に捕らえられてしまいます。
その一人、田中愿蔵も真名畑の地で捕らえられ、当時の代官・多出銃三郎の厳 しい詮議を受け、21才という若さで処刑されてしまいます。現在、刑場跡には、 その霊を弔う碑が建てられています。
日本三大薬師のひとつである「薬王寺薬師堂」は、三間宝形造りの様式を持つ 7.51m四方の大堂です。
建築年代は不明ですが、米山薬師中興の祖と言われた宥善上人の時代(17世紀 中頃)か、それを少し下がった時代と推測され、八溝山を取り巻く広域に広まった 「米山薬師信仰」の信徒たちの寄進によって建立されたものと伝えられています。
木堂は素木造りで、禅宗様式を加味したこの地方には珍しい壮大な建物です。
また、本堂は米山山頂にある奥の院の祭殿として営まれたことから、「御仮屋」 の呼び名が今も残り、春には4月祭りが夏の終りには八朔(はっさく)祭りが 行われています。