塙町の文化財 -014/105page
近世
豊臣秀吉の奥州仕置の後、関ヶ原合戦で豊臣側についた佐竹義宣が、慶長七(一六〇二)出羽国秋田に移封されるまでその支配下におかれたのち、当地域をはじめとする南郷の地は幕府に収公され、幕府代官彦坂元正が慶長十一年まで支配した。これが、塙地方が幕府の直轄領となった最初である。
慶長八年、立花宗茂が、寺山館から二万石加増され赤館城主となり、元和六年(一六ニ〇)旧領筑後柳川に復した。当地域の村々は、近世初期から幕領として代官の支配するところと、棚倉藩によって支配される村とに分かれた。元和八年(一六二二)丹羽長重が常陸古渡から五万石で入封し、棚倉城の築城および城下町の整備がおこなわれ、当町域の旧村はすべてその支配下におかれた。寛永四年(一六二七)内藤信照が近江国より入封し、正保四年(一六四七)領内総検地が実施され、藩体制が確立された。内藤氏は、信照、信良、式信と三代七十八年にわたり支配し、宝永二年(一七〇五)駿河田中に移封するが、同地より太田資晴が入封し、享保十四年(一七二九)上野館林に所替えとなった時に、白川郡のうち六七ヶ村・二四、五九〇石余、その他常陸国多賀郡、陸奥国菊多郡・磐前郡などあわせて五万石余りが幕府に収公された。
初代の代官は岡田庄太夫で、古殿町竹貫に陣屋を開いたが、同年九月会田伊右衛門に代わった時、塙に代官所が開設された。上渋井、常世中野、下中塚、田野作、川下、川上の各村は天明四年(一七八四)に棚倉藩に支配替えされたが、塙、下渋井、竹之内、板庭、上中塚、木野反、台宿、伊香、植田、真名畑、上石井の各村は、幕末
大蕨
(1)愛宕神社 (2)金毘羅神社 (3)中村神社
田代
(1)田代中里供養塔 (2)北野神社
那倉
(1)十殿神社 (2)熊野神社 (3)雷神社