塙町の文化財 -036/105page
り体躯の全体を一材で彫出している。そして脚部と両手は別材を矧いでいる。この像では、頭部に一部彩色をとどめているが、他は木の肌をそのまま生かしている。やはり表情には、厳しさがうかがえる。口をしっかり結んだ顔貌は、意志的な強ささえ感じられる。衣の線にも鋭さがあり、表面に何も彩色を施していないために、ノミの切れ味の良さがより強調されているようである。このような作風は、天福二年(一二三四)造立の棚倉町八槻都々古別神社の十一面観音立像に通じる。この像は台座背面の銘文から、八溝山で修行した僧のつくったものであることがわかっている。ノミ跡を残した荒々しさの中に、気迫のこもった力強さがみられる。湯舟観音堂像も、八槻都々古別神社像のように、修行僧などによってつくられたものと推察されるのである。棚倉町と同様、塙町も八溝山の麓に位置する。八溝山は十一面観音の浄土(じようど)であり、僧侶の修行する山でもあった。そのような山岳で修行する僧が、麓におりてきて、修行の一環としてこのような像をつくったのではなかろうか。そうするとこの像は、塙町の地域的な特徴を如実に示す作例といえるであろう。
(三)
徳川家康が征夷大将軍となった慶長八年(一六〇三)より大政奉還のあった慶応三年(一八六七)まで、二百六十年あまりを江戸時代と呼んでいる。この時代は、非常に長い時代で、仏像の遺品の数がもっとも多い時代でもある。この時代の仏像は、まったく定型化し、仏像彫刻としてみるべきものはあまりない。しかし数量が豊富であると同時に、伝来、造立の過程など、仏像の歴史的な変遷が比較的よく把握できる時代である。この時代は、それだけ仏像に関する他の資料が豊富であり、仏像が人々の生活に身近な存在であったことが理解されるのである。
菊池家や石井家の地蔵菩薩像のように、一材でつくられ、素朴な作風の像がある。これらの像は、あるいは専門の仏師の作ではないかもしれない。在地の、素人に近い仏師のつくったものと考えられるのである。一方、寄木造(よせぎづくり)の他の多くの像は形式化してはいるが、仏像のかたちはきちんと保っており、その意味では調和のとれた作風をもっている。真蔵寺地蔵菩薩坐像は、記録によって植田の常福寺において、宝永七年(一七一〇)につくられたものであることがわかる。作者は、栃木県益子の高田右近という仏師であった。
東浄寺の弘法大師坐像は、像内に納められている文書により、享保十九年(一七三四)につくられたものであることがわかる。さらにこの像をつくるにあたって、金品を施した人が、棚倉町八槻の出身で当時江戸市谷に住んでいた、玉屋庄兵衛という人であることもわかる。この像は江戸でつくられ、庄兵衛の出身地である棚倉町の寺院に納められたのである。また海蔵寺の開山(かいざん)の肖像彫刻は、台座の墨書銘により、明和五年(一七六八)に岩瀬村の仏師「大原右京 賀全(ヨシタケ)」によってつくられたものであることがわかる。
これら三像は、すべて江戸時代中期頃の作である。しかしつくった仏師、つくられた場所など、それぞれ異なっている。真蔵寺と海蔵寺の両像の仏師は、真蔵寺像が栃木県の仏師で、海蔵寺は岩瀬村の仏師であった。真蔵寺像の作者が他所の仏師とすれば、海蔵寺像の作者は地元の仏師といえよう。つくられた年代に五十年あまりの隔りがあるが、定型化した作風は両者に共通する。技法構造は、多少真蔵寺像が細かいが、頭部を別につくり体躯に挿し込むつく