塙町の文化財 -037/105page
り方は同様である。真蔵寺像の衣の線などに、やや切れ味の良さがうかがえるのは、つくられた年代が海蔵寺像より古いことと、仏師の技倆の差とみられるであろう。さらに年代的にその中間に位置する東浄寺像は、江戸でつくられている。しかし技法構造は、頭部を一材で彫出し、前後に合わせた体躯に挿し込んでいる。基本的には、海蔵寺像に通じるつくり方である。当時の中央である江戸の仏師の彫刻である東浄寺像と、地元の仏師の作である海蔵寺像は、つくられた年代が近いこともあるが、形式化した力のない作風は共通し、さらに基本的な技法構造もほぼ等しくしている。このように江戸時代になると、作者やつくられた土地が 異なっても、作風や技法構造にそれほど大きな差はなく、均一化されてくるのである。それだけこの時代の仏像は、個性がないともいえるであろう。
おわりに
塙の仏像の歴史は、鎌倉、南北朝時代に溯る。そしてこの地に仏像をつくる活動が定着するのは、遺品からみれば南北朝時代になるであろう。中央の仏師によってつくられた賢瑞院や常世観音堂の諸像などが、この町の仏像の歴史の基盤を形成するものであろう。次の室町時代に入り、徳林寺像などへと作風が受け継がれていく。一方、湯舟観音堂像のように山岳に修行する僧侶のつくったものと考えられる像もあり、この地の地域的特色をうかがわせる。造像活動が土着化していったことがわかり、個性的な像が出現してくる。地方的、個性的な時代といえるのである。この地方化は江戸時代になると、より稀薄になってしまう。画一化が進み、個々の仏像において作風の系統を探ることも困難になる。しかし歴史資料としての価値は認められるであろう。そして庶民にもっとも仏像が浸透していったのも、江戸時代である。この時代、新たにつくられた仏像や、古い時代から伝えられてきた仏像は、村の人々により信仰され、守られ、現在に至っているのである。
衣の線の比較