塙町の文化財 -048/105page
十六、木造開山任山良運坐像
江戸時代
海蔵寺 大字東河内字五郎内
像高 三八・八p
寄木造 玉眼嵌入 彩色禅宗(ぜんしゅう)では祖師(そし)、先徳(せんとく)の肖像を尊重し、師より教えを受けたことのしるしとした。これらの肖像を頂相(ちんそう)と呼び、鎌倉時代以降、禅宗の興隆とともに多くの彫像や画像がつくられた。この像は袈裟(けさ)をつけ、曲(きよくろく)といわれる椅子の上に結跏趺坐する。そして曲の下に裳裾を長く垂らし、頂相の特徴的表現をみせている。曲の裏に墨で銘文(めいぶん)が書かれ、造立年代やこの像をつくった仏師(ぶつし) などが知られる。それによるとこの像は当寺の開山の肖像で、明和五年(一七六八)に岩瀬郡柱田村(現岩瀬村柱田)に住んでいた仏師「大原右京賀全(ヨシタケ)」によってつくられたものであることがわかる。その他、この像の造立にあたり、金品を施入した人々の名などが記されている。
頭部を一材で彫出し、前後に二材を合わせた体躯に挿し込んでいる。お顔は写実的に表現されているが、形式的な作風は否定できない。しかし江戸時代の岩瀬地方の仏師の作であることがわかり、当地方の基準的な作例となるであろう。
十七、木造阿弥陀如来立像
江戸時代
龍沢寺 大字西河内字龍ヶ沢
像高 六一・三cm
寄木造 玉眼嵌入 漆箔当寺は縁起などによると、八幡太郎義家が建てたという。天喜元年(一〇五三)に建てられたというから、その歴史はかなり古い。しかしこの伝承を裏付けるような遺品はない。明治三十五年(一九〇二)に罹災し、この像は罹災後、常世北野村八幡の光明寺より移したものと伝える。
小粒の螺髪を彫出し、右手をあげ、左手を垂下して、それぞれ第一指(栂指(おやゆぴ))と第二指(人差指(ひとさしゆび))を捻じ、来迎印を結んでいる。構造は頭部を前後に矧ぎ、襟の線で体躯に挿し込む。体躯は前後に二材、さらに両肩より袖先まで通して各一材を体側に矧いでいる。現在、漆箔が剥落し、右手の指先なども一部失っている。
穏やかなお顔をしているが、湯岐阿弥陀堂阿弥陀如来立像と同様、側面からみると