塙町の文化財 -055/105page

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二、賢瑞院観音堂(湯舟観音堂)

湯舟観音堂内陣境
湯舟観音堂内陣境

所在 大字山形字桜下
建立 江戸初期(明治二年大修理)
方三間(四・二四メートル四方)、宝形造り、茅葺き。

 町の東方、天神川に沿った丘腹の木立のなかに建ち、湯舟の観音堂の通称で呼ばれる。堂の由緒はあまり明らかでなく、現在は川の下流の賢瑞院に属し、湯舟部落で管理している。

 擬宝珠付きの高欄をもつ切目縁を四周に回らし、正面は階段のみで向拝を略する。身舎の軸部は角柱で、板溝を刻んだ横板壁張り、正面三間だけは摺り上げ板戸を開く。軒は一重の大疎垂木だけで軒組を省き、柱上には直接桁を載せるごく簡素な構造である。

 堂内は前通り二間を拭板敷きの外陣として格天井、格間には彩色画を描く。また、奥一間通りの内陣は結界で隔てて祭壇を設け、その中央には方一間・宝形造りで円柱と出組をもつ小型の厨子を安置する。室町期の作とも伝えられる聖観音像を納めているこの厨子は、屋根の破損がとくに著るしい。

 この遺構は外陣の格天井の画賛の記載からみると、主要部分はすべて明治二年(一八六九)の建立であるとみられる。ただし、内陣境に立つ四天柱(円柱)二本は、天井付近で遊離したままの柱頭の禅宗様三つ斗などからみて、前身建物の遺構であることは確かである。したがって、江戸初期ぐらいの時期に建てられたまま、壇上に安置した厨子も傷むほど破損していた仏堂を、明治二年に至って、内陣境の円柱二本だけを残して簡略な形式で改築した、という経過になるのであろうか。

なお、堂の内外に掛けられた絵馬の類は多く、古くは文政年間(一八二〇頃)のものから保存されている。

三、北野神社本殿

所在 大字川上字繕
建立 宝暦四年(一七五四)
方一間(間口一・五ニメートル、奥行一・三五メートル)、流造り、鉄板葺き(もと柿板葺き)。

 川上地区を南北に流れる川上川東岸の丘腹に建つこの地区の鎮守社で、大正年間神社から東白川郡役所宛出された「神饌幣帛料御指定願」の記述では、永正六年(一五〇九)京都北野天満宮から勧請されたものであると伝えている。

 現存の本殿は切石一重基壇上に建ち、向拝の三方には切目板敷きの浜床を回らす。刎高欄を付した身舎四方の切目縁の腰には、縁束の束頭に斗漢字を組むほか、縁貫の貫端にも木鼻を飾るなど、浜床両側の高欄とともに下部からていねいな細工が施されている。軒は二重の繁垂木を円柱上の絵様肘木を用いた出組で受け、中備の蟇股上にも斗漢字を組む。また、妻にも笈形付きの大瓶束


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