塙町の文化財 -056/105page
を飾るのをはじめ降り懸魚にまで猪目懸魚を付するなど、身舎・向拝間の虹梁や木鼻などの彫刻と相い侯って全般に豪華である。
一方、身舎の内部は前後に仕切っていずれも拭板敷き・板打上げ天井とするなどごく簡素である。なお、現在外廻りに施されている丹塗りは後補とみられる。
若干保存している棟札のうちに、比較的大型で記載の詳しい宝暦四年(一七五四)「奉造営」のものが見え、前後の状況からこれが現存本殿の建立時のものと推定される。その後寛政十年(一七九八)と明治三十二年(一八九九)との屋根替棟札が続くが、ほかにも葺替えはあったと思われる。なお、ほかに前身建物のものとみられる棟札も数枚保存されている。
四、東浄寺薬師堂
所在 大字川上字薄久保
建立 宝暦十年(一七六〇)以前
間口三間(五・六三メートル)、奥行二間(五・四四メートル)、宝形造り、鉄 板葺き(もと茅葺き)。町の東方谷合いを蛇行する川上川の西岸丘腹に立つ福蔵院東浄寺は、長寛二年(一一六四)初代秀栄の開山と伝えている真言宗智山派の古刹である。東に開けた丘腹の寺域は広い方ではなく、南から庫裡・本堂・薬師堂の順に東面して並立させている。
北端に位置する薬師堂は、間口三間と奥行二間の変則的平面を持つ、丹塗りの遺構である。四周には擬宝珠高欄を取付けた切