塙町の文化財 -057/105page
目縁を回らし、正面中央一間の階段両側には逆蓮柱を飾る。
軸部は現在正面中央一間を折戸、両方の端の間ははめ殺し格子戸、両側面は各々前一間を引違戸とするほかは背面まで竪板壁であるが、開口の位置や建具形式は必ずしも旧形を保っていない。軒は一重の繁垂木を六枝掛けとし、粽付きの円柱上には台輸を回しているが、軒の出三つ斗や中備の平三つ斗の形は和様である。
堂内は前一間通りが畳敷き(もと、拭板敷き)で、支輸を付けた格天井の外陣とし、格間には彩色画を描く。和様の組物をもつ四天柱の線で区画される内陣境は、もと三間とも結界で閉されていたと伝えており、その痕跡も残すが、現在はすべて開放されている。奥一間通りの内陣は拭板敷き・竿縁天井で、中央奥の一間には和様須弥壇を造作し、薬師如来を祀る厨子を安置する。
この堂の建立を証する記録の類は保存されていないが、外陣の小壁に掲げて保存している武者絵の画賛を根拠とすれば宝暦十年(一七六〇)以前ということになろう。
なお、外廻りの四隅や中央および内陣境の四天柱などに取付けられた獅子や象などの木鼻は明らかに後補であり、わずかに、背面北西隅の木鼻だけが旧形を伝えている。
五、賢瑞院本堂
所在 大字川上字寺下
建立 宝永七年(一七一〇)
間口一二間(二三・九九メートル)、奥行八間(一五・六一メートル)、寄棟造り、セメント瓦葺き(もと茅葺き)。河上山賢瑞院は、町の東方を流れる川上川東岸丘腹に建ち、文亀二年(一五〇二)の創立と伝える曹洞宗の寺院である。
本堂は南北に長い寺域の北端近く、一段高い位置に南面して建ち、比較的規模は大きいが、向拝とうは付されていない。
外廻り軸部は角柱で、背面を真壁で閉鎖するほかはすべて引違戸(もと、障子戸)で開放する。軒は一重の化粧垂木、軒組は全く施さず軒桁に柱直付けである。
堂内は前端一間通りが土間縁、その奥一間通りが縁高約一メートルの切目縁、さらにその奥三間通りが畳敷きの外陣通り、最奥の三間通りが拭板敷きの内陣通りである。この内陣通りと・外陣通りは東西両端に幅一間の切目縁を設けるほか、四室列八室に仕切られ、中央西寄りの一室を内陣とする。