塙町の文化財 -082/105page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

塙町の古文書

常世中野区有文書

 この文書は、現在東白川郡塙町大字常世中野にあって、常世中野区長によって引き継れている。もとは常世中野村名主文書・常世中野戸長役場文書として引き継がれていたものである。総点数四七七点(近世三九六点、明治期八一点)からなっている。

 常世中野村は、元禄郷帳や天保郷帳では常世中村ともいわれた。はじめ常陸佐竹領、慶長七年幕領(彦坂小刑部)元和八年棚倉藩領、享保十四年幕領(竹貫代官所・塙代官所)天明四年棚倉藩の支配下におかれた。

 「正保五年三月村内御改二付書上帳」(「塙町史」2)によれば、村高五四五石一斗三升二合余、人数一三〇人、家数二九軒、馬数一七疋と記されている。

 この区有文書は、土地関係では「正保四年八月奥州棚倉領白川郡常世中ノ村田畑水帳」をはじめ「慶応元年九月常丑水損地小前書上帳」など三三点、年貢関係では「寛文十二年十月子之歳常世中ノ村土免状之事」など年貢割付状は「慶応三年十一月卯御年貢免状之事」まで一六五通、年貢皆済目録五四通、御年貢籾金勘定目録三二通、浮役銭之事三一通、御年貢御用捨引四八通などよくまとまっている。

 村方庄屋役引渡帳面目録(八通)、村絵図、村差出帳は、常世中野村庄屋を代々つとめた荒川家に残るものと、区有文書にある天保七年三月、慶応元年、慶応三年九月、慶応四年八月の村差出帳とがある。これによって常世中野村の概況、村民生活の実態を知ることができる。また村方出入、借用証文、質地証文などもふくまれるが、この常世中野区有文書の中心は、土地・年貢関係といえよう。

松本喜輝家文書

 この文書は、現在東白川郡塙町大字中塚、松本喜輝家に伝存する中塚村名主文書の一部である。総点数は三八○点、うち近世文書二八七点、近代文書九三点である。

 中塚村は、慶長七年幕領(彦坂小刑部)〜享保十四年幕領(竹貫代官所・塙代官所)の支配下におかれた。

 村高は二五二石二斗五升三合で「天保郷帳」では二五五石余、また寛延二年・寛延三年の年貢割付状では、中塚村上組(高七九石七斗七升八合五勺)中塚村下組(高一七五石三斗九升四合五勺)とある。下って明治元年、「旧高旧領取調帳」によれば、上中塚村(高二一四石六斗七升六合六勺五才)、下中塚村(高四〇石四斗九升六合三勺五才)とあって、上中塚村は棚倉藩領分で、下中塚村は幕領塙代官所の支配下にあった。

 中塚村二五五石余が村分けされるのは、棚倉藩主小笠原堯の天明四年十一月塙代官領のうち一七ヵ村五八○○石余が領地引替となった。

 このときの一七ヵ村は、瀬ヶ野村、小爪村、強梨村、戸中村、漆草村、大梅村、福岡村、上手沢村、下手沢村、北山本村、中山本村、下山本村、上渋井村、中野村、川上村、川下村、それに中塚村のうち二一四石六斗七升余が、塙代官野村権九郎から引渡をうけた。このとき中塚村の枝郷舘岡村分四〇石四斗九升余が、幕領中塚村として残り、一村一人百姓で、松本家の先祖である名主喜兵衛(喜平)が中塚村(下中塚村)を支配した。

 主として中塚村の年貢関係文書である。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は塙町教育委員会に帰属します。
塙町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。