塙町の文化財 -092/105page
この間、仏輿は、この鐘揉の進行を待つ間、時に息杖をっき、留まるがその折、信徒の人々は御賽銭をあげ、その輿の下をくぐることが行われた。それにより、疫病を除けるとされた。
このような行列は、数時間かかって薬師堂へ移され、その後十日間、縁日毎の賑わいがあった。
その縁日とは、先ず始めの八日は一つに米山開山の日とされ、又各寺では、灌仏会の日でもあるが、ここでは、薬師堂への初の願掛けの日として、病難除けの祈願に、お餅などをお供えの参拝が行われる。
次の縁日といわれる日は、十二日、十二手観音の日とし賑わい、次の十五日は、結縁の日として、初日の願かけをあらためて、餅などの供物をする。これらの供物の餅は、十八日の薬師帰山後、割られて各参拝者へ配られた。
又前日の十七日は、八溝嶺神社の祭典日であり、その登拝者である、この地方の人達は、峯伝えの山道をここ薬師堂へ下り、参拝し帰宅することで、賑わいがあった。
又始めの日の七日の午後、山頂に奉置されてある「おびんする様」の仏像を放課後の小学生達が棒に逆さまに吊して部落内をかつぎ廻る行事があり、各家では、いくらかのお賽銭を上げる慣わしがあった。この仏像は、子供へ知恵を授ける御仏として行われたことである。
以上四月祭典であるが、それが何時の頃から行われたかは、資料はない。又昭和三十九年五月の頂上仏堂の焼失後、しばらく、この祭典行事は中止されていたが、近年再興、旧例の如くではないが、新暦をもって行われている。
出羽神社祭礼
山形県羽黒山の出羽神社の御分霊を祀り、古くから塙三ヶ村(竹ノ内村、塙村、下渋井村)の総鎮守となっている。祭礼は、塙町秋祭りである十一月三日前後に行なわれる。
戦国時代には、ここに山城が築かれたが、その名も出羽の修験道場があったことから"羽黒館"と称された。
江戸時代には、その祭礼の神幸行事には厳しい慣例が生まれた。塙三ヶ村では大事な年中行事としてこれを守り続け、今日でもその神幸行列には古式ゆかしいものが残されている。三年毎に行われる大祭には、町中を練り歩く神輿もあり、新しい行事も加えられて賑わう。