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塙町の民話・伝説
昭和五十五年、塙町教育委員会より「はなわまちの民話と伝説」という小冊子が発行された。全部で六十ぺージの中に三十六編の話が収録されている。ただの笑い話や、教訓、戒めを含んだ内容の話等様々である。共通している点は、たいてい塙町の地名、またはゆかりの事象が登場してくることである。現存の事柄の由来等を伝承する話は、真実性はともかく、塙町に限定された話であることに間違いない。
しかし、長者話のように、地名等が塙町に関係していることを除けば、他の土地でも類似した話があるものも多い。
まんだら堂
まんだら堂という十一面観音をまつるお堂が古宿にある。このお堂は、大同年間にこの地に住んだ朝日長者の建てたものと伝えられている。
この朝日長者は七人の男の子があり、何不足なく暮していました。ところが、たいへん邪けんな人で、この地を通る修業者、旅人、その他、金を持っていると思われる者に宿を貸し、石のおとしで殺しては金を奪っていたという。
そんなことを続けたため、大罰が下ったのか、ある年の正月二十日の日から、順に子どもが七人、七月二十日までに皆死んでしまった。長者夫婦の嘆くこと限りなく、果ては、髪を下げて諸国修行に出てしまった。
子どもの菩提をとむらい、後世安業祈願、回国を続け山々を登り苦行を続けた。
越中の館山をたどった時、中途にして日は暮れ、柴の根元に仮寝をし、なお子どものためと念仏を唱えていたところ、一人の旅僧がどこからともなくやってきた。
その旅僧は、願いをきき、肩にかけた衣の袖の内から、七人の子どもの姿をのぞかせてくれた。見ると、わが子のさいの河原の苦行、火の山、火の車の様子が見えたので、このうえなく嘆き悲しんだ。
そして、その僧に御慈悲を願い、伏し拝んだところ、その僧の申すには、子どもがかわいいと思うならば、早速故郷へ帰り、末の世まで残るようなお堂を建て、まんだら供養をするがよいと言うや阿弥陀如来の姿となり、雲に乗って西方彼方飛び去ってしまった。
長者夫婦はその後姿を伏し拝み、早速故郷へ帰り、帰宅するやいなや大工を頼み、一夜のうちにお堂を建ててしまった。
そして、まんだら供養を続け、そこに来られた慈覚大師のお作りになられた十一面観音を本尊とし、末世のため、朝日さし夕日さす樹の下に漆千杯、朱千杯、黄金千杯を埋めて供養とした。
その後の、正月二十日の御縁日には参拝者が多く、一度お詣りすれば六道三途に迷いなく、再度お詣りすれば、どのような悪人でも救ってくださるという。また、この御慈悲を疑う人は、地獄におちること矢のようだとも言われている。
先年まで、長者屋敷と言われた土壇の一区画があったが、今は耕地として平にされてしまった。