塙町の文化財 -097/105page

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赤岡の大竜

 大昔、今の源八山竜沢寺の前の竜ケ沢に大竜がすみ、人を呑みおどすことが続いた。源八なる者もこの竜に呑みこまれるしまつに、人々はたいへんに困ってしまった。そんなところに義家が来たので、早速直訴におよんだ。

 義家は、茶筅船山に陣屋をはり、ぶなの木の葉を茶に煎じて大竜の出現をまった。そのうちに、一天かきくもり雷鳴をともなった黒雲は、雨谷から西河内一帯に広がり、その烈しい雷雨の間に大竜が見えた。この時とばかり、義家は力一杯弓を張り無数の矢を放ったところ、多数の矢が命中した。竜はついにたおれ、その出血で、西河内一帯は赤く染められたという。そのうち、特に赤くなった小高い丘を赤岡と呼び、竜の頭のおかれたところを蛇頭という。

 雨があがってから、住民が寄って見ると、竜の体長は蛇頭から赤岡までの大きなもので、胴体には矢が千本もあたっていた。千本という地名は今もある。

長者の話

 湯岐に上台という小山のような高台があります。むかしここに上台源左ヱ門という長者が住んでおりました。

 この長者は大へんな物持ちで、りっぱなくらしをしておりましたが、おもしろいことに縁起をかつぐ長者でした。そして、いろは四十八字を好んで何事にもそれにあやかるようにして使い、四十八ということを大切にしました。

 田も畑も四十八町にとどめ、家畜の数も四十八頭にしました。倉を建てることも四十八棟にならべました。たくさんの下男下女も働らいていましたが四十八人でした。

 そんな豪勢なくらしをしておりましたから、その台地から南に当る所に、白山という山が一つ見えまして「あの白山が崩れてなくなることがあっても、この源左ヱ門の家はつぶれないぞ」と云っていたということです。

 それからずっと後になってからでしょうが、源左ヱ門がいなくなってから、その近くの窪地に、かじゃくぼ長者と云われる、かじゃくぼ藤治右ヱ門という人が住むようになりました。この長者は、りっぱな刀かじをしておりましたが、表立ったことはしないで、隠者のようなくらしをし、そこで一生を終ったということです。

 また、その近くにほどくぼ幸蔵という長者も住んでおり、鉄をとっていたということですが、近辺には「かなくそ石」と呼ばれる鉄かすが、今も見つけられるとのことです。

 また、そんな長者の住んでいた所が知れわたっていたため、遠い町から移り住んでくるようにもなったのでしょうか。つぎのような話が残っています。それは、京塚という地名と、大きな石碑が残されていることにまつわる話です。

 遠い京都の町からか、戦乱のため落ちのびてきた身分の高いお姫様が、ここまでたどりっき、長者の加護によって一堂を営み、都に残されて、亡くなった方々の追善供養をしたとのことです。その供養碑が京塚だと云われています。


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