塙町の文化財 -098/105page
与次郎稲荷の狐
米山旧参道の入口近くに、与次郎稲荷という祠があります。この稲荷のお使い狐が、昔から与次郎狐と言われて、この土地では有名な狐だったそうです。
この狐は、二十キロも離れた鮫川村の北の境に住んでいたおよし狐へ、婿入りをしてしまうほどの評判の高い狐でした。
与次郎狐は白狐だったと伝えられています。夜になると、米山の中腹で「曹徳寺の惣領とやじの乙姫が揃わぬうちは、いっこう調子がそろわねえ」という歌声になって、狐の踊りが始まったそうです。
曹徳寺は双の平にあり、与次郎狐のところでも「しぼった川原の与次郎、双の平の曹徳寺、この二人が揃わぬうちは、声も調子もそろわぬ、どんどこどん」と言って踊ったことが書かれてありますから、狐も相手がなくては踊りにならなかったのでしょう。
そしてこの二つの話とも、曹徳寺の狐が引き合いに出されており、惣領と言われたことからも、多分、与次郎狐だったのではないでしょうか。
双の平の南、上渋井には「館の権吉」という侠客の親分みたいな名の狐が住んでおり。お互いに勢力を争ったようです。
茶筅船山
田代の奥に茶筅船山という、標高七百七十余メートルの山があります。阿武隈山脈の、ひときわ高い山ですが、この山の名が変っているところから、いくつかの伝説が伝えられています。
昔、八幡太郎義家が、この地方を平らげてこの山に登られたことがありました。その時頂上にあったぶなの木の下におやすみになられた。のどがかわき、飲み物を言いつけたので、家来の者が、この大木のぶなの葉をせんじて、お茶がわりに差上げたので、ちゃせんぶなというのだそうです。
その他、八幡太郎義家が、この山の頂上に登られた時、はるか東の方、太平洋上に船が見え、だんだん海岸へ近づいてきて、港に入るのが見えたとのことです。海岸のことをしらべると、海の方からもこの山が見え、その頂上にぶなの大木が見えるので、海上からはこのぶなを目あてに着船するようになり、したがって、着船ぶな山と呼ばれるようになったというのです。
また、ずっと前までは、頂上に大きなぶなの木がこんもりと繁っていて、お茶に使うちゃせんに似て見えたことから、そんな呼び名になったのではないでしょうか。
山から海岸までまっすぐに測ると、小名浜まで約三十六キロ、勿来の菊多の浜まで二十六キロもありますから、小さな船の時代、望遠鏡でも見えなかったでしょうし、日本でお茶が使われるようになったのは、義家の後二百年もたって、中国から伝わってからになっています。