わたくしたちのきょう土 矢祭町-096/111age
・昭和12年(1937年) ・330メートル上流にせきをつくりかえた。
・昭和20年2月(1945年) ・戸塚武楽が加わって3地区の共同ぜきになった。
・昭和25年10月(1950年) ・コンクリートぜきにつくりかえた。
・昭和49年11月(1974年) ・電気を使った揚水ポンプで川の水をくみ上げて田に水を引くようになった。
▲工事前の我満ぜき
▼完成した我満ぜき
(2)疏水の恩人高沢孫左衛門
あれ地や干害を受けやすい土地に水を引いて、りっぱな耕地にする開田事業をなしとげた人は数多くありますが、関岡の高沢孫左衛門もそのひとりです。
孫左衛門は、この地で農業を営んでいましたが、土地の起伏が多く近くに水量が豊かな久慈川があるのにもかかわらず、何度も何度も干害にあってきました。
そこで、明治28年(1895年)に孫左衛門は、江戸塚・上小坂・下小坂の3地区の農民たちといっしょに開田の工事に着手しました。
工事は、6か月で終わりましたが、約2,500円の費用をかけ用水ぼりをつくり、あれ地を開田しました。