わたしたちの鮫川村-083/109page
東野の土地を開く
鈴木 作兵衛 (1843〜1912年)
天保7年(1836年)のれいがいで、村は大ききんとなってしまい、が死する人がたくさん出ました。東野もあれ野となってしまいました。
「これではだめだ。」と思った作兵衛は、馬場の家を養子にゆずり、東野の蕨の草へ家をたて、うつっていきました。
そして、作兵衛夫婦は小見川はんの殿様のゆるしをうけ、村の人びとと力をあわせ、田を24ヘクタールほど開こんしました。そのあと、新しく27戸が村のあちこちからやってきて住むようになりました。
文久元年(1861年)に作兵衛は、東野の戸長(今の村長)になり、村の人びとの世話をしました。
作兵衛は、田を開こんして、村の人びとのためにつとのくしたごほうびとして、殿さま様から木のさかずきをもらいました。
作兵衛は、,後に、赤坂中野、石井草、富田村の戸長もつとめ、村の人びとのためにつくしましたが、病気にかかって、69才でなくなりました。
鈴木 源之助 (1841〜1912年)
源之助は、赤坂東野で生まれました。実家を妹にゆずり、明治9年(1876年)湯の田に大きな家をたて、「下の湯」を開き、村の人びとからよろこばれました。げんのすけ源之助は、22年間も村びとの世話をいっしょうけんめいやりました。
明治12年(1879年)には、西野小学校から中野小学校(いまの鮫川小学校)を分けて建てることのためにつくしました。
源之助は、だれよりも開こんに力を入れました。明治12年から5年間かけて東野、石井草、富田のあれ地の開こんを村の人びとによびかけて、みんなで数百ヘクター
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