わたしたちの鮫川村-084/109page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

ルもの田畑をつくらせました。
 そして、養蚕をしょうれいして、明治20年(1887年)には、赤坂東野石井草区へくわ桑なえ12万本をうえさせました。
 また、植林にも力を入れて、すぎなえ12万本も買ってうえさせました。
 源之助は、明治22年(1889年)鮫川村の第1代村長になると、赤坂中野で盆市や暮市をひらき、村の商業がさかんになるようにつとめました。
 また、馬のせり場をひらき、よい馬をそだてるようにと、村の人びとにはたらきかけました。おせりには、村じゅうからたくさんのよい馬があつまってきたので、よその地方からも馬をかう人がやってきてにぎわいました。そして赤坂せりとして有名になりました。


青生野の土地を開く

新妻 よし晴(にいづまよしはる)(1853〜1924年)

 よし晴は、武士の子として今のいわき市で生まれました。明治13年(1880年)おじいさんといっしょに、土地を開こんするために青生野にうつりすみました。
 よし晴は、心のしっかりしたまじめな人でした。
 青生野の土地は、天明のききん(1785年)のため、が死したりよそへにげておおいったりした人が多く、すんでいる人よしはるはあまりいませんでした。でも、よし晴らがうつってきて、開こんをはじめてからは、だんだん村の人びともふえてきました。
 明治22年(1889年)よし晴は、私有林がないために区の人びとがこまっていしかねるのを知って、自分でお金を出して、国有林のはらい下げをねがい出まし
青生野の土地を開く

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は鮫川村教育委員会に帰属します。
鮫川村教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。