わたしたちの鮫川村-085/109page

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た。また、馬に食べさせる草をかる土地のはらい下げを国にねがい出てゆるされました。これは、福島県でもめずらしいことでした。
 よし晴は、大正3年(1914年)村会議員にえらばれました。
 よく年、東京に行き、国有林野200ヘクタールを国からかりるゆるしをえてきました。そして、区の人びととそうだんして、国から原野をはらいうける計画を立て、みんなでそのためにつかうお金をちょ金しました。それから、青生野の人びとがよいくらしができるようにと、青生野保護組合をつくりました。
 よし晴は、明治22年(1889年)に青生野に分教場をつくるようにはたらきかけたり、青年の教育のためにつくしたりしました。大正7年(1918年)には、青生野は戸数50戸、人口250人、田畑200ヘクタールになりました。
 よし晴は、「青生野の開祖」と区の人びとからそんけいされました。


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須藤 千代之助(ちよのすけ)(1869〜1932年)
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 千代之助は、明治2年(1864年)に赤坂西野に生まれました。子どものころから勉強がよくできました。
 明治24年(1891年)から同32年(1899年)9月まで、書記、収入役として役場につとめました。その後、郡会議員をへて、明治39年9月より昭和2年9月までの21年間村長としてつとめ、のちに県議会議員にもなりました。
 その間、村の人びとが進んで税金をおさめるようにと村に納税組合をつくらせました。そのため、鮫川村は東白川郡で一番の納税もはん村になりました。
 大正3年(1914年)には大きな公会堂を建て、村の集会場としてつかえるようにしました。この公会堂は、県内の村の中でもめずらしくりっぱなものでした。
 秋には、農産物の品評会を開いて、よい作物をつくるようにしょうれいしました。

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