体験学習の手引き-009/033page

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会津木綿

 会津地方の普段着、日常着として伝統を保ってきた会津木綿は、会津人の人柄を示すように、色は地味で、技巧のない縞柄であり、かつ実用向きに織られていて大夫であるのが特徴です。
1.会津木綿の歴史
 会津木綿の歴史をたどりますと、会津藩主加藤嘉明(寛永4年・1627)が会津に移った時、前領地の伊予松山から織師を招いて、伝習したのが会津木綿の起こりといわれています。その後、寛永20年(1643)に会津藩主になった保科正之が綿花の栽培を奨励しました。
 当時は、布を織る「機織り」の作業は、農民だけではなく、藩士の妻女の内職としても行われました。農・商・工業にたずさわる庶民は主に藍草(あいぐさ)・綿花の栽培及び製品の販売をしていました。しかし、その後度重なる倹約(けんやく)令のため、絹や紬(つむぎ)を着用できる範囲がより制限され、この木錦織物の作業も農民の副業へと変わっていきました。そして会津藩の特産品である漆器、陶磁器などと同様に、藩の保護政策のもとで、次第に発達していきました。
 生産が増したのは、綿糸紡績業が発達し、さらに力織機が普及した明治33年以降で、最盛期には、30数社の機業場がありましたが、現在は会津若松市内には3社のみとなっています。(その他の町に6社)
 会津木綿は、従来普段着や仕事着、夜具地(やぐじ)などに用いられていましたが、昭和30年代半ば以降農家の仕事着としての需要が急減してからは、素材は純綿を守りながら、縞柄に改良を加え、現在では民芸識物として、着尺地(きじゃくじ)、洋服地、テーブルクロスや座布団などのインテリア用品、ハンドバッグ・ネクタイ、財布、袋物などの民芸品として、幅広く利用されています。
2.会津木綿の原料
 古くは、地元で栽培した綿による綿糸を使っていましたが、近年は国内の紡績工場から必要な太さの綿糸を購入しています。したがって、古くからやっていた原綿からの種子とりや糸つむぎ、綛(かせ)上げなどの仕事はなくなりました。
 国内の紡績工場で用いろ綿花は、良質で安い綿花を、海外から輸入しています。
3.藍染(あいぞめ)の原料
 会津木綿本来の染色は藍染です。藍草(あいぐさ)を原料として、大正時代は猪苗代湖南岸や会津坂下町の青木から藍玉を購入していました。現在は北海道や四国の阿波(あわ)からねせて叺(かます)に入れたものを買っています。また藍染は化学染料より手間がかかって大変であることから、現在は半分以上化学染料が使われています。
4.会津木綿の作られる順序
(1) 綿糸の入手
  国内の紡績工場から購入する。
会津木錦の製品
会津木錦の製品


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