すばらしい先輩たち 会津人のほこり(第1集) -048/197page
になってきました。だから連歌集を作る計画が発表されるとわれもわれもと申し込みが集って、その申し込みを途中でしめ切らねばならないほどでした。そのくらい、このころの連歌(れんが)はさかんでした。
連歌集を作るには、たいへんな経費(けいひ)がかかります。そのころ、現在の山口県のあたりを支配(しはい)していた大名に、大内政弘(おおうちまさひろ)という人がいました。代々(だいだい)武士として地方の豪族(ごうぞく)をほろぼして大名の地位(ちい)を作りあげてきたのですが、一方では京都の貴族文化(きぞくぷんか)にあこがれをもち、京都にならって山口の町を作ってきました。連歌にも大きな関心(かんしん)をもっていて、この連歌集を作るための後媛(こうえん)をしてくれることになりました。
そこで、延徳(えんとく)元年(1489年) には宗祇(そうぎ)が、翌二年には兼載(けんさい)が、はるばる山口まで大内政弘をたずねていきました。新しい連歌集を作る相談がされたものと思われます。