すばらしい先輩たち 会津人のほこり(第1集) -111/197page

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 そのころ、若松町長(若松町は明治三十二年に若松市となります。)であった夫(おっと)の季昌(すえまさ)は、幼稚園(ようちえん)をつくることには理解してくれて、資金集めにも協カしてくれましたが、女学校を経営(けいえい)することには反対でした。

 季昌は、若いころ、フランスのパリ万国博覧会(ばんこくはくらんかい)に招(まね)かれたとき、イギリスなどのヨーロッパの国々をまわって、新しい知識(ちしき)を身につけてきた人でしたが、キリスト教には反対で、男女の平等(ぴょうどう)を理想(りそう)とした女学校の教育を理解してはくれませんでした。

 リンは5年間に二百円、協力者は5年間に五十円という予定でお金を出しあって女学校の資金(しきん)としました。もちろん、これで足りるはずもなかったので、後には、町から補助金(ほじょきん)をもらったり、教会(きょうかい)で知りあった人々に寄附(きふ)をお願いしたり、また、借金(しゃっきん)までしたりして苦労がつづきました。


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